現東区東部から天王寺区にかけての広い地域をいい、両区に玉造の地名が残る。平安初期に成立した「上宮聖徳太子伝補闕記」の群書類従本には「川勝進斬大連之頭、少将軍撃平余党、係虜賊首家口、覆奏於玉造之東岸上、在東生郡」とあり、また「聖徳太子伝」所収本には「玉造之在東生郡東岸上」と記される(両本とも底本は水戸彰考館本)。これによれば玉造の東方には水面が広がっていたことになる。補闕記の引用文に続けて「即以営為四天王寺、始立垣基」とある。これだけでは、「営」すなわち軍営の所在地は明らかでないが、延喜一七年(九一七)成立の「聖徳太子伝暦」に引く「本願縁起」には「於玉造岸上、始基四天王寺」とあり、伝暦本文にも同文がみえ、四天王寺(現天王寺区)の基礎は「玉造岸上」に置かれたと伝える。なお、同じ伝えは「四天王寺御手印縁起」にもみえる。東区・天王寺区とその東の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
島根県東部,松江市の旧玉湯町にある温泉。宍道(しんじ)湖の南岸に近く,JR山陰本線玉造温泉駅の南2kmに位置する。《出雲国風土記》にみられる古い温泉である。凝灰質砂岩のすきまから湧出し,泉質は無色透明の含食塩セッコウ泉,泉温は50~70℃。松江市,出雲大社とのバスの便がよく,観光客も多い。さらに宍道湖南岸にここの湯を引いて新玉造温泉ができた。温泉街近くの玉作湯神社の伝承では,玉造の地名は,三種の神器の一つ,八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)などの多くの玉類がここで作られたことによるという。温泉街の東裏一帯の丘陵地は出雲玉作跡として国の史跡に指定されており,多くの遺物が出土している。北東約2kmの花仙(かせん)山(200m)から採れる,出雲石といわれるメノウを原料として各種の細工ものなどが作られ,みやげ品となっている。
執筆者:池田 善昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
茨城県南東部、行方郡(なめがたぐん)にあった旧町名(玉造町(まち))。現在は行方市の北西部を占める地域。旧玉造町は、1889年(明治22)町制施行。1955年(昭和30)玉川、手賀(てが)、現原(あらはら)、立花(たちばな)の4村と合併。2005年(平成17)麻生(あそう)、北浦(きたうら)2町と合併して市制施行、行方市となった。古く玉造部(たまつくりべ)の居住地といわれ、旧町名の由来となった。霞ヶ浦(かすみがうら)に臨み、行方台地と沿岸低地よりなる。国道354号、355号が通じ、かすみがうら市との間に霞ヶ浦大橋が架かる。JR石岡駅から鹿島(かしま)鉄道が通じていたが、2007年に廃止となった。古代から府中(石岡)と鹿島を結ぶ水陸交通の要地で、大掾(だいじょう)氏、佐竹氏の支配を経て水戸藩領となった。イチゴ、セリ、エシャロットの栽培が盛ん。ワカサギ漁のほか、コイ養殖は全国第1位の産地である。西蓮寺(さいれんじ)の仁王門と相輪橖(そうりんとう)は国指定重要文化財。
[櫻井明俊]
『『玉造町十年の歩み』(1965・玉造町)』
大阪市北部の天王寺区(てんのうじく)、中央区にまたがる地区で、上町(うえまち)台地上の小高い丘が玉造岡である。古代に玉造部(べ)が住み、勾玉(まがたま)づくりを行った。玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)は、大坂城の守護神として豊臣(とよとみ)家の尊敬を受け、石の鳥居は秀頼(ひでより)が寄進したもの。奈良街道を利用する伊勢参りの出発点で、付近には歴史の散歩道がつくられている。JR大阪環状線、地下鉄長堀鶴見緑地線の玉造駅がある。
[安井 司]
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