大崎郷
おおさきごう
日向国諸県郡の南西端にあり、現大崎町と有明町・大隅町の一部にあたる。
〔中世〕
中世の大崎は救二郷のうちで、現大崎町の田原川・持留川の下流域にあたると考えられる。南北朝期以降田原川下流右岸の横瀬に龍相城、神領に大崎古城、持留川下流左岸の仮宿に胡麻崎城・大崎城が築かれた。また中世以前にさかのぼる寺院である飯隈山飯福寺照信院が田原川左岸の神領にあった。延文四年(一三五九)一〇月の日向南郷(現末吉町・宮崎県都城市)への遠征ののち、島津氏久は蓬原城(現有明町)の救二郷氏を討ち救二郷を守護領としたという(「島津氏久譜」旧記雑録)。大崎も氏久領に含まれたと考えられる。しかしその後肝付氏・北郷氏・新納氏らの間でしばしば争奪が行われたようで、応永一九年(一四一二)には新納忠臣(久臣)が大崎城を手裏に入れたという(「新納忠臣譜」同書)。この大崎城がどの城をさすかは不明。また嘉吉元年(一四四一)八月二三日のものと推定される北郷知久書状(樺山文書)には、同一九日大崎の在家が肝付・和田の軍勢により放火されたことがみえる。文明年中(一四六九―八七)肝付越前守兼光は嫡家と不和となって高山を去り守護島津氏方に属して大崎城に入ったといい(三国名勝図会)、同六年の行脚僧雑録(旧記雑録)で救仁郷の城主として肝付主税助がみえ、兼光と推定されている(雲遊雑記伝)。文明一八年日向飫肥(現宮崎県日南市)から志布志に戻った新納忠続は大崎・蓬原を含む救二郷の支配を守護から認められた(「新納忠続譜」旧記雑録など)。新納氏は大崎城などを守って北郷氏らに敵対したが(庄内平治記)、天文七年(一五三八)一月二一日豊州家の島津忠朝の派遣した右衛門大夫忠隅の軍勢に大崎城は攻められ、二九日に落城した(島津国史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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