日本歴史地名大系 「大智庵城跡」の解説 大智庵城跡だいちあんじようあと 長崎県:佐世保市大野村大智庵城跡[現在地名]佐世保市瀬戸越町相浦(あいのうら)川中流域の城(しろ)山(一〇六メートル)に築かれた中世の山城跡。延徳二年(一四九〇)松浦定が中里の武辺(なかざとのたけべ)城から本拠を移して当城を築城したとされる。当時の相神浦松浦氏は東方の龍造寺氏、南方の有馬氏、北方の平戸松浦氏など三方の勢力と対峙しており、定の嗣子政が城主であった明応七年(一四九八)に平戸の松浦弘定に襲撃されて落城、政は戦死して嗣子の親(当時は幸松丸)は人質とされた。親はのち平戸を脱して相浦川下流域に飯盛(いいもり)城を築き、相神浦松浦氏の再興をはかることになる(松浦家世伝)。大智庵城之図(松浦史料博物館蔵)では東の大手門口から西の後門口まで一五〇間、北西の三方を小河川が取巻き、川岸から中腹の二の丸までは釣瓶落し三三間という急崖で、主郭は東西一五間半・南北一二間半と記されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報