大江親広(読み)おおえのちかひろ

朝日日本歴史人物事典 「大江親広」の解説

大江親広

生年生没年不詳
鎌倉前期の武将。左近将監。遠江守。武蔵守。正五位下。大江広元嫡子。母は飛騨守源仁綱の娘と伝えられ当初は源姓を名乗る。源通親の猶子であったともいう。早くから将軍側近として活躍。京都守護として上洛し,中原季時,伊賀光季らと共に公武交渉,大番役統轄,洛中警固などに当たる。京都守護としての上洛を『吾妻鏡』は承久1(1219)年2月29日とするが,建保2(1214)年にはすでにその任にあった可能性が強い。承久1年将軍源実朝暗殺後出家し法名を蓮阿とするが,京都守護にはとどまり,同3年の承久の乱に際しては,後鳥羽上皇の命にしたがい京方として近江国供御瀬の戦に参戦し敗退。乱後はその所領出羽寒河江荘に謹慎する。『一本大江氏系図』には仁治2(1241)年12月15日没とある。<参考文献>田中稔大内惟義について」(『鎌倉幕府御家人制度の研究』)

(美川圭)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大江親広」の解説

大江親広 おおえの-ちかひろ

?-1242* 鎌倉時代の武将。
大江広元の長男。将軍源頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)の側近として重用される。建保(けんぽ)7年(1219)実朝の死後出家。同年京都守護となる。承久(じょうきゅう)の乱では後鳥羽(ごとば)上皇にしたがって北条泰時(やすとき)軍とたたかい,敗れて出羽(でわ)寒河江(さがえの)荘にのがれた。仁治(にんじ)2年12月15日死去。法名は蓮阿。

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世界大百科事典(旧版)内の大江親広の言及

【寒河江氏】より

…近衛家領出羽国寒河江荘を名字の地とする,中世の豪族。鎌倉初期に当荘地頭職を得た幕府官僚大江広元とその嫡男親広を始祖とする。親広は承久の乱で上皇方に荷担したが,その子広時の系統が南寒河江荘地頭職を安堵され,鎌倉後期の広時の孫元顕のとき,寒河江に移住したと伝えられる。ただし,13~14世紀を通じて,広時子孫の名字は親広の官途民部権少輔に拠り,少輔氏を称す。南北朝期の少輔氏は,出羽南朝方として知られる。《天文本大江系図》《尊卑分脈》では,室町初期の広元8代孫時氏を寒河江氏を名のった初代とし,現存史料でも,このころからようやく寒河江氏の名称が記載されている。…

【寒河江氏】より

…近衛家領出羽国寒河江荘を名字の地とする,中世の豪族。鎌倉初期に当荘地頭職を得た幕府官僚大江広元とその嫡男親広を始祖とする。親広は承久の乱で上皇方に荷担したが,その子広時の系統が南寒河江荘地頭職を安堵され,鎌倉後期の広時の孫元顕のとき,寒河江に移住したと伝えられる。ただし,13~14世紀を通じて,広時子孫の名字は親広の官途民部権少輔に拠り,少輔氏を称す。南北朝期の少輔氏は,出羽南朝方として知られる。《天文本大江系図》《尊卑分脈》では,室町初期の広元8代孫時氏を寒河江氏を名のった初代とし,現存史料でも,このころからようやく寒河江氏の名称が記載されている。…

※「大江親広」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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