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後嵯峨天皇 ごさがてんのう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

後嵯峨天皇
ごさがてんのう

[生]承久2(1220).2.26. 京都
[没]文永9(1272).2.17. 京都
第 88代の天皇 (在位 1242~46) 。名は邦仁。土御門天皇の皇子。母は贈皇太后源通子 (贈左大臣源通宗の娘) 。承久3 (21) 年,承久の乱によって父土御門上皇が四国に移されたのち,外家源通方に養われ,通方の死後は祖母承明門院源在子の土御門第に移った。四条天皇崩御の際 (42) ,立儲 (りっちょ) が決せず,執権北条泰時が使を京に急派して衆説を排し天皇を策立させた。即位後,法華八講を安楽心院に修し,後鳥羽天皇の諡号を贈り冥福を祈った。寛元1 (43) 年さらに八講を修して父土御門天皇の霊を慰めた。同4年位を皇子久仁親王 (後深草天皇) に譲り,以後後深草,亀山の2代の間,院政を行なった。天皇は資性温雅で幕政に対してもあえて対立せず,また長子久仁親王よりもその弟恒仁王 (亀山天皇) を愛し,後深草天皇の子をおいて亀山天皇の第2子世仁親王を皇太子に立て,いわゆる持明院統大覚寺統対立の端緒をつくった。厚く仏教を信奉し,文永5 (68) 年落飾して法名を素覚と称した。諸宗の法理に通じ,しばしば高野,熊野を巡り,また経論を書写供養した。和歌に長じ,藤原基家,為家らに命じて『続古今和歌集』を撰ばせた。また『続後撰集』をはじめ多くの勅撰集に天皇の歌が収められている。陵墓は京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町の嵯峨南陵。

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デジタル大辞泉の解説

ごさが‐てんのう〔‐テンワウ〕【後嵯峨天皇】

[1220~1272]第88代天皇。在位1242~1246。土御門(つちみかど)天皇の皇子。名は邦仁(くにひと)。四条天皇没後、鎌倉幕府執権北条泰時(ほうじょうやすとき)に擁立されて即位。譲位後は後深草亀山両天皇の間、院政を執ったが、兄後深草より弟亀山を愛し、亀山の皇子を皇太子に立てたため、持明院大覚寺両統対立のもととなった。

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百科事典マイペディアの解説

後嵯峨天皇【ごさがてんのう】

土御門(つちみかど)天皇第2皇子。1242年四条天皇の急逝により幕府の意向で即位。在位4年で皇子後深草(ごふかくさ)天皇に譲位。後深草・亀山2代の天皇にわたり,約27年間の院政を行う。しかし幕府の朝廷に対する干渉が強まり,上皇自身幕府の意向を重視,要請に応じ,皇子宗尊(むねたか)親王を最初の宮将軍として鎌倉に下した。死後の〈治天(ちてん)の君(きみ)〉の決定も幕府に委ねたため,のちに持明院(じみょういん)統大覚寺(だいかくじ)統の対立を激化させる一因になった。
→関連項目五代帝王物語

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

後嵯峨天皇 ごさがてんのう

1220-1272 鎌倉時代,第88代天皇。在位1242-46。
承久(じょうきゅう)2年2月26日生まれ。土御門(つちみかど)天皇の第3皇子。母は源通子(つうし)。四条天皇が12歳で死去したため,鎌倉幕府の後押しで即位。在位4年で譲位し,子の後深草・亀山天皇の兄弟2代26年間院政をおこなう。文永9年2月17日死去。53歳。墓所は嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)(京都市右京区)。その死後,皇位継承をめぐり,後深草の持明院統と亀山の大覚寺統とが対立(両統迭立(てつりつ))した。諱(いみな)は邦仁(くにひと)。法名は素覚。
【格言など】敷島ややまと島ねのあさがすみもろこしまでも春はたつらし(「続後撰和歌集」)

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世界大百科事典 第2版の解説

ごさがてんのう【後嵯峨天皇】

1220‐72(承久2‐文永9)
第88代に数えられる天皇。在位1242‐46年。土御門天皇の第2皇子。名は邦仁。母は土御門通宗の女源通子。誕生後1年にして母を亡くし,ついで承久の乱のため父上皇と生別,祖母の承明門院源在子に養育されたが,1242年(仁治3)四条天皇の急死の後をうけて,幕府の推挙により皇位についた。すでに23歳になっていた天皇は,進んで政務に精励したが,在位わずか4年で位を後深草天皇に譲り,以後,後深草・亀山2代にわたって院中に政務を親裁した。

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大辞林 第三版の解説

ごさがてんのう【後嵯峨天皇】

1220~1272) 第八八代天皇(在位1242~1246)。名は邦仁。土御門つちみかど天皇の皇子。在位4年で後深草天皇に譲位、以後26年間院政を続けた。亀山天皇の皇子世仁親王(後宇多天皇)を皇太子に推したことから後深草系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)の対立を生じた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

後嵯峨天皇
ごさがてんのう
(1220―1272)

第88代天皇(在位1242~46)。名は邦仁(くにひと)。法名素覚。土御門(つちみかど)天皇の第3皇子。母は贈皇太后源通子(みちこ)。四条(しじょう)天皇が急死したのち、鎌倉幕府の推戴(すいたい)によって思いがけず皇位についた。1246年(寛元4)皇位を嫡子の後深草(ごふかくさ)天皇に譲って院政をみたが、59年(正元1)次子の亀山(かめやま)天皇が皇位についたのちも院政を続けた。68年(文永5)出家し、文永(ぶんえい)9年2月17日没す。御陵は京都の嵯峨南陵。天皇は崩御に先だち御書を幕府に遣わし、将来の皇位は後深草、亀山両流のいずれとも定めず、幕府の推挙にまかせるとの旨を伝えたが、これがのちに原因となり、両統迭立(てつりつ)、両統両立(南北朝)紛争の基となった。[村田正志]

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367日誕生日大事典の解説

後嵯峨天皇 (ごさがてんのう)

生年月日:1220年2月26日
鎌倉時代前期の第88代の天皇
1272年没

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世界大百科事典内の後嵯峨天皇の言及

【両統迭立】より

…鎌倉時代後半,天皇家が後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂して皇位継承を争った時期に,妥協策として両統から交互に皇位につくとされた原則。後嵯峨法皇は第3子後深草上皇よりも第7子亀山天皇を愛し,後深草の皇子熙仁親王を退けて亀山の皇子世仁親王を皇太子に立てたが,承久の乱(1221)後鎌倉幕府が皇位継承問題に干渉することが多く,それを顧慮した後嵯峨法皇は死に際して後深草,亀山のいずれを〈治天の君〉(天皇家の惣領)とすべきかの決定を幕府の指示にゆだねた。…

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