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1231.2.12~42.1.9
在位1232.10.4~42.1.9
後堀河天皇の第1皇子。名は秀仁(みつひと)。母は九条道家の女藻璧門院竴子(しゅんし)。1231年(寛喜3)皇太子となり,翌年後堀河天皇の譲位により即位。外祖父の道家や道家の岳父西園寺公経らが政治の実権を握った。42年(仁治3)天皇の没後,道家は順徳上皇の皇子を皇嗣に推したが幕府に拒絶され,幕府の推す後嵯峨天皇の即位まで,皇位は11日間空白となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
第87代天皇(在位1232~42)。名は秀仁(みつひと)。後堀河(ごほりかわ)天皇の第1皇子。母は中宮、藻壁門院藤原竴(たか)子(父九条道家)。1232年(貞永1)10月2歳で践祚(せんそ)、同12月即位。幼少のため九条教実(のりざね)、道家、兼経(かねつね)らが相次ぎ摂政(せっしょう)となった。在位約10年間に改元六度、12歳で没。陵墓は京都市東山区今熊野の月輪(つきのわ)陵。
[小野信二]
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…後世その戒律を北京律という。 俊芿滅後の1242年(仁治3)に没した四条天皇は,生前から俊芿の生れ変りと世に伝えられ,大葬も泉涌寺で執行され,遺骸は,表面に不可棄法師と刻された俊芿の石造卵塔墓のかたわらに葬られた。この由縁を契機に,こののち幕末まで多くの天皇・女院の陵墓が,泉涌寺の後にある俊芿と四条天皇の廟所に接して営まれた。…
…また楊貴妃観音はいまも境内の観音堂に安置され,その端正な容姿は海外伝来の仏像の白眉として名高い。当寺が皇室の菩提寺となった契機は,1242年(仁治3)みずからを俊芿の生れかわりであるとした四条天皇の葬礼が当寺で執行され,御陵が境内に営まれてからである。室町時代前期の後光厳天皇から幕末の孝明天皇に至るまで,歴代天皇の葬儀は当寺で行われることとなり,この間,江戸時代初期の後陽成天皇まで歴代天皇の荼毘所(だびしよ)ともなった。…
※「四条天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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