コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

北条泰時 ほうじょうやすとき

8件 の用語解説(北条泰時の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北条泰時
ほうじょうやすとき

[生]寿永2(1183).鎌倉
[没]仁治3(1242).6.15. 鎌倉
鎌倉幕府の3代執権 (在職 1224~42) 。義時の子。妻は三浦義村の娘。幼名は金剛。建久5 (1194) 年元服して頼時と名のり,のち泰時と改名。建暦1 (1211) 年修理亮,建保6 (18) 年侍所別当,承久1 (19) 年正月従五位上,駿河守,同年 11月武蔵守。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ほうじょう‐やすとき〔ホウデウ‐〕【北条泰時】

[1183~1242]鎌倉幕府第3代執権。在職1224~1242。義時の長男。通称、江馬太郎承久の乱に上洛して鎮定に当たり、六波羅探題として乱後の処理にあたった。父の死後執権となり、評定衆の設置、御成敗式目の制定など、御家人中心の武家政治の確立に努めた。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

北条泰時【ほうじょうやすとき】

鎌倉幕府第3代執権。義時の子。1221年承久の乱には幕府軍の大将として上京,引き続き六波羅探題(ろくはらたんだい)として戦後の処理に当たった。1224年執権。連署評定(ひょうじょう)衆を置いて合議制を制度化し,1232年御成敗式目を制定して武家政権を確立。
→関連項目宇治川の戦株河駅北条氏御内人

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北条泰時 ほうじょう-やすとき

1183-1242 鎌倉時代の武将。
寿永2年生まれ。北条義時の長男。承久(じょうきゅう)の乱では叔父北条時房とともに京都に攻めのぼる。乱後,初代六波羅(ろくはら)探題北方。元仁(げんにん)元年3代執権となり,連署や評定衆の新設による合議制や貞永(じょうえい)元年の「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」の制定で執権政治を確立。和歌をよくし,「新勅撰和歌集」などに歌がある。仁治(にんじ)3年6月15日死去。60歳。初名は頼時。通称は江間太郎。法名は観阿。
【格言など】公私如何を顧みるのみ。怨(うらみ)を畏れて決せずんば,何ぞ執権に取らんや(「日本外史」)

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

北条泰時

没年:仁治3.6.15(1242.7.14)
生年:寿永2(1183)
鎌倉幕府3代執権。義時の長男。幼名は金剛。建久5(1194)年源頼朝を烏帽子親として元服。偏諱を賜り頼時と名乗ったが,のち泰時と改名。江間太郎と号す。建仁2(1202)年三浦義村の娘と結婚,翌年,嫡男時氏を儲けた。官位は駿河守,武蔵守,左京権大夫などを経て正四位下に至る。北条氏の正嫡として早くから幕府内に重んぜられ,建保1(1213)年の和田義盛の乱では将軍御所(幕府)の防御に奮戦し,同6年7月には父の後任の侍所別当となった。承久3(1221)年5月に承久の乱が勃発すると,叔父北条時房と共に幕軍主力を率いて東海道を西上,6月入京を果たした。泰時は北方,時房は南方の初代六波羅探題として,そのまま京都に駐留した。元仁1(1224)年6月,父の執権義時が急死したため帰東,北条政子の指示により執権職を継いだ。翌嘉禄1(1225)年長老大江広元,政子が相次いで逝くと,六波羅に在った時房を連署(副執権)に迎えて両執権制を確立。同年暮,幕府を大倉から鎌倉中心部の宇都宮辻子に移転したのを機に評定衆を定め,また鎌倉大番の制を整えた。さらに同所で,源氏将軍の後継者として摂関九条家から迎えていた三寅(藤原頼経)の元服式を挙行,翌年1月,頼経への将軍宣下を計らった。かくして幕政大いに刷新し,ここに執権政治が確立したといえる。寛喜の飢饉(1230~31ころ)のおりにみせた泰時の撫民策は,仁政として後世に語り継がれ,貞永1(1232)年には最初の武家法典たる『御成敗式目』を制定し,裁判の公平を期した。 一方,畿内大社寺の勢力に対しては強硬な態度で臨み,悪僧らの武装解除を推進した。暦仁1(1238)年篝屋を設置して洛中の治安維持にも努めたが,仁治3(1242)年四条天皇の後嗣問題に介入,廷臣の反対を抑えて後嵯峨天皇を即位させた。泰時が合議と道理に基づく政治を主唱・実行したのは事実だが,同時に,執権の権威高揚と北条氏の家督としての権力強化に腐心した一面も見過ごせない。同年5月,病により出家(法名観阿),翌月没した。泰時の墳墓は大船(鎌倉市)に作られ,今も常楽寺境内に伝えられる。<参考文献>上横手雅敬『北条泰時』,杉橋隆夫「執権・連署制の起源」(『立命館文学』424~426合併号)

(杉橋隆夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

ほうじょうやすとき【北条泰時】

1183‐1242(寿永2‐仁治3)
鎌倉幕府3代執権。義時の嫡男。幼名金剛。1194年(建久5)元服,源頼朝が烏帽子親(えぼしおや)となり,名前の一字を与え頼時と名のらせたが,のち泰時と改名。江間太郎と称す。1213年(建保1)の和田義盛の乱では幕府を防衛するなど奮戦し,和田氏を滅ぼした。21年(承久3)の承久の乱には,叔父時房らとともに東海道の大将軍として大軍を率いて攻め上り,杭瀬川(くいせがわ)(美濃)や宇治川(山城)で後鳥羽上皇方を破り,ついに京都を占領した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ほうじょうやすとき【北条泰時】

1183~1242) 鎌倉幕府三代執権。義時の子。江馬太郎と称す。常楽寺殿とも。承久の乱に幕府軍を率いて上洛、乱後、初代六波羅探題。1225年評定衆を設置。32年に制定した「御成敗式目」は以後の武家法の規範となった。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北条泰時
ほうじょうやすとき
(1183―1242)

鎌倉幕府第3代執権。父は北条義時(よしとき)。幼名金剛(こんごう)。1194年(建久5)元服して頼時(よりとき)と称し、のちに泰時と改めた。1211年(建暦1)修理亮(しゅりのすけ)に任ぜられたのを初めとして、以後式部少丞(しきぶのしょうじょう)、駿河守(するがのかみ)、武蔵(むさし)守、左京権大夫(さきょうごんのだいぶ)を歴任した。一方、18年(建保6)に侍所別当(さむらいどころべっとう)に就任。21年(承久3)承久(じょうきゅう)の乱が勃発(ぼっぱつ)すると、叔父時房(ときふさ)とともに西上、京方を打ち破り、その後も在京して乱後の処理にあたった。これが六波羅探題(ろくはらたんだい)の始まりである。なお、この時期に高山寺の明恵(みょうえ)(高弁(こうべん))との親交が始まったものと思われる。24年(元仁1)父義時の死により、鎌倉に帰って執権に就任した。このとき、継母伊賀氏は実子政村(まさむら)を執権にたてようとしたが、泰時は伯母政子(まさこ)の助力を得てこの企図を阻止した。翌年政子と大江広元(おおえのひろもと)が相次いで没すると、泰時は時房を連署(れんしょ)に迎え、さらに評定衆(ひょうじょうしゅう)を設置して合議的な政治運営を目ざし、32年(貞永1)には御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定した。こうして泰時の代に、名実ともに執権政治が確立したのである。対朝廷関係では、協調関係を基調としつつも、承久の乱で流された後鳥羽(ごとば)・順徳(じゅんとく)両上皇の還京要求を拒否し、また四条(しじょう)天皇没後公家(くげ)側の意向に反して、後嵯峨(ごさが)天皇を推戴(すいたい)するなど強硬な一面ももっていた。42年(仁治3)病のため出家し観阿(かんあ)と称したが、6月5日没した。道理を愛する清廉な政治家として、当時より公武双方の称賛を受け、後世長く武家政治の亀鑑(きかん)と仰がれた。[近藤成一]
『上横手雅敬著『北条泰時』(1958・吉川弘文館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の北条泰時の言及

【鎌倉幕府】より

…乱後,幕府は京都守護の代りに六波羅探題を置き,京都の警備,朝廷の監視,西国の政務などに当たらせた。25年(嘉禄1)政子が没すると,執権北条泰時は政治改革を行い,独裁政治から合議政治への転換を試み,ここに執権政治は全盛期を迎えた。執権は複数となり(1名がいわゆる連署),評定衆が置かれ,32年(貞永1)には最初の武家法典である《御成敗式目》が制定され,裁判の公正が図られた。…

【御成敗式目】より

…1232年(貞永1)執権北条泰時のイニシアティブのもとに,太田康連,矢野倫重,斉藤浄円ら法曹系評定衆を起草者として制定された51ヵ条の鎌倉幕府法。貞永式目,関東式目とも呼ぶ。…

【執権政治】より

…次に執権政治から得宗専制政治への移行を考えると,得宗専制は46年(寛元4)に成立し,85年(弘安8)に確立したといえる。したがって執権政治期は,もっとも狭義には執権北条泰時・経時の時代のみであるが,広義にはこれに先だつ時政,義時の時代,これに続く時頼,長時,政村,時宗の時代も含まれ,これらの時期は,それぞれ鎌倉殿独裁政治期および得宗専制政治期との過渡期に相当する。執権政治期を狭くとれば,1225‐46年の約20年にすぎないが,本来鎌倉幕府の政治は,鎌倉殿や得宗の独裁・専制の政治であり,執権政治のような合議政治は,得宗が鎌倉殿に代わる専制の主体に成長しきれない段階におこる特殊な現象であって,その期間が短いのも当然なのである。…

【道理】より

…ものごとの筋道,正当な理念などという意味で古代から現代に至るまで日常的に用いられる語だが,とくに中世では一種の法的,思想的な意味をもつ流行語としてさかんに用いられた。もっとも有名なのは北条泰時のいわゆる〈道理好み〉であって,《御成敗式目》立法の基本理念を〈たた道理のおすところ〉と表現し,また,みずから主宰する法廷での当事者の主張に〈あら道理や〉と感歎するなどの逸話が知られている。泰時にかぎらず,中世の裁判で自己の主張もしくは判決の正当性を理由づけるために用いられた道理は,法的なもの,慣習的なもの,道徳的なもの,さらにより高次な正義・衡平観念であって,場合によっては法規範や道徳規範と矛盾する道理もありえたし,その時点,その場面にしか通用しえない心理的・感性的な道理も存在した。…

【得宗】より

…鎌倉幕府執権北条氏の家督。徳宗,徳崇とも書く。鎌倉北条氏2代義時の法名に由来し,その嫡流の家督をさすようになり,さかのぼって初代時政のほか,夭折して家督を継がなかった時氏も含めて,いわゆる〈北条九代〉(時政,義時,泰時,時氏,経時,時頼,時宗,貞時,高時)を総称する語になった。初代時政は将軍源頼朝の外舅として一般御家人とは別格の地位を与えられていたが,頼朝没後,御家人の列に下り,1203年(建仁3)9月比企能員一族を攻め滅ぼして2代将軍頼家を追放し,政所別当に就任,幕政を執権した。…

【北条時房】より

…鎌倉前期の武将。時政の三男。初名時連。畠山重忠の誅伐や和田合戦鎮圧に活躍。1210年(承元4)幕府膝下の武蔵国の国守となり事実上の守護を兼ねる。17年(建保5)相模守。源実朝の死(1219)後の緊迫した公武交渉の一翼をにない,21年(承久3)承久の乱が起こると甥泰時とともに東海道を進撃,後鳥羽上皇軍を破って入京。乱後六波羅探題南方の任にあたり,伊勢,丹波の守護を兼ねる。25年(嘉禄1)鎌倉へ帰り執権泰時のもとで連署となり,のち遠江の守護を兼ねる。…

【御内人】より

…さらに北条氏の蓄積した膨大な所領を管理して経済力を身につけ,鎌倉後期には一大勢力を築いた。御内人の本格的進出は北条泰時の代に始まり,泰時の邸宅内には御内人の宅が置かれて,その中から家令として尾藤景綱が任ぜられた。また泰時の所領を管理する得宗公文所なる機構が設けられて,御内人がその運営にあたった。…

※「北条泰時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

北条泰時の関連キーワード執事得宗北条経時安貞金剛力内訴中先代文暦塩飽聖遠伊賀氏の変

今日のキーワード

大寒

二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...

続きを読む

コトバンク for iPhone

北条泰時の関連情報