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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸後期の漢詩人。名は信有、字(あざな)は天禧(てんき)。江戸の人。28歳で『作文志彀(しこう)』1巻を、31歳で『作詩志彀』1巻を、56歳で『孝経樓詩話』2巻を著す。古文辞(こぶんじ)説を排撃し、明(みん)詩は唐詩を剽窃(ひょうせつ)した偽詩であり、『唐詩選』は偽書であり、宋詩(そうし)の清新は唐詩の真を得たものといい、詩は格律や神韻を主とすべきではなく、清新性霊を主とすべきであると主張し、文章は韓愈(かんゆ)、柳宗元(りゅうそうげん)を理想とした。文化(ぶんか)年間(1804~18)竹堤吟社(ちくていぎんしゃ)を主宰し、門下から大窪(おおくぼ)詩仏、梁川星巌(やながわせいがん)らを輩出し、天下の詩風を一変した。著書は前記のほか多方面に及ぶ。
[松下 忠]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…昌平黌に学んでいた時分には,古文辞派の擬古主義の影響を強く受けて,その詩風の詩人としてすでに一家をなしていた。おりしも18世紀中ごろ以来全盛を誇っていた古文辞派がようやく勢力を失い,江戸では古文辞派を激しく批判する山本北山の詩論書《作詩志彀(しこう)》(1783)の出現を契機として,真情を重視する清新派という新しい詩風が起こってきた。寛斎も18世紀末に清新派に転じ,南宋の陸游や范成大を手本とする日常的な詩情に富んだ平明な詩風を主張して,たちまち新しい詩風の指導者となった。…
…とはいえ彼が詩壇に吹きこんだ新風は,それなりの効果を次の世代に伝え,新たな革新の呼び水となった(竟陵派)。その影響は日本にも及び,元禄年間(1688‐1704),山本北山,元政上人らの心酔者は,これを借りて荻生徂徠一派の古文辞学を激しく批判した。【入矢 義高】。…
…盛唐詩の光華雄渾な詩風への憧れには浪漫主義という文学的な意義があったのであるが,天明(1781‐89)ごろになると,古文辞派の擬古主義を否定して,もっと近世人の生活感情に即した詩情,表現を求める動きが詩壇に出てきた。理論面の代表者は山本北山で,擬古主義を模擬剽窃(ひようせつ)として激しく攻撃した。実作面を代表するのが,市河寛斎とその門人たち,大窪詩仏や柏木如亭などであって,彼らは日常的な素材,詩情に富む宋詩の影響のもとに,近世人の生活感情を的確にとらえた新しい詩風を示した。…
※「山本北山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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