大谷町(読み)おおたにまち

日本歴史地名大系 「大谷町」の解説

大谷町
おおたにまち

[現在地名]大津市大谷町

逢坂おうさか峠を過ぎて東海道沿いに上大谷町・中大谷町・下大谷町と連なる両側(寛保二年町絵図)。古くは山間の谷であったが、逢坂関が廃れ、新道を開いてから商家が並び始め、上・中・下の三町に分立したという(輿地志略)。天正二〇年(一五九二)一〇月、豊臣秀吉が逢坂山近くに一里塚を築いた際、「大谷町」から人夫を出している(園城寺旧記)。寛永石高帳に大谷町として高付され、大津町支配であることを示す御免許大谷町屋敷一〇石余の記載のほか、三井みい寺領八石余とある。元禄郷帳では幕府領一四石余とあり、天明村高帳では同じく幕府領だが、大谷村と記される。

大谷町
おおたにちよう

[現在地名]八幡市八幡大谷

はとヶ峰の北にあって、町場は科手しなで町西口から南の谷筋へ形成された。町内の常昌じようしよう(現常昌院)門前やや南の城福じようふく(現廃寺)から南の谷あいを奥谷おくたにといい、男山の周囲に沿う町場の多い八幡にあって、唯一の山へ入込む形をつくる町である。町の規模は南北一一七間。

安居頭人記(「男山考古録」所引)によれば、承元三年(一二〇九)落合与十郎、同四年谷村源太郎、建保五年(一二一七)谷本大膳の大谷町居住の石清水いわしみず八幡宮安居頭人がみえ、早くから社士居住の町であったことを示している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報