日本歴史地名大系 「大隅国府跡」の解説 大隅国府跡おおすみこくふあと 鹿児島県:国分市大隅国府跡大隅国は和銅六年(七一三)に日向国の肝属(きもつき)・贈於(そお)・大隅・姶羅(あいら)の四郡をさいて設置された。「和名抄」国郡部ではこの四郡に菱刈(ひしかり)・桑原(くわはら)・馭謨(ごむ)・熊毛(くまげ)の四郡が加わって合せて八郡となり、桑原郡に「国府」の注が記されている。古代史料で当国府が確認できる唯一のものであり、八世紀中頃から九世紀前半までの間に贈於郡から分れて成立したと考えられる桑原郡域に所在したことはほぼ認められよう。同郡内で候補地を求めると、地名からみて現在の国分市府中(ふちゆう)が最も有力となる。同所は、古墳・奈良・平安各時代の土師器・須恵器などのほか、布目瓦などが採集されていること、大隅国の総社であったと伝える守公(もりきみ)神社(現在の祓戸神社)が鎮座し、国庁との関連が指摘できること、大隅国分寺跡と一キロ余の距離にあり、国庁が国分寺とほぼ同一地域に存在したことが推定できること、中世の史料であるが、嘉吉元年(一四四一)一一月一一日の鎌田道賢寄進状(旧記雑録)に「国府まくさたの畠」とあり、「まくさた」は現府中の字馬草田(まぐさだ)と考えられることなどから国府所在地として有力と思われる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by