大隅国分寺跡(読み)おおすみこくぶんじあと

日本歴史地名大系 「大隅国分寺跡」の解説

大隅国分寺跡
おおすみこくぶんじあと

[現在地名]国分市中央一丁目

現国分市街の北部舞鶴まいづる城跡西方に隣接する標高八―九メートルの微高地上に立地する。方二町が推定される寺域の中心部にあたると思われる国分市公民館分室の前には康治元年(一一四二)銘の六重層塔が建つ。国指定史跡。天平一三年(七四一)国分寺建立の詔によって諸国に建立された国分寺のうちの一つ。「弘仁式」主税寮の日向国の正税・公廨などを記した所に「国分寺料三万束」とみえ、その内訳として「当国一万束。大隅国二万束」とある。このことから、「弘仁式」が成立した弘仁一一年(八二〇)頃までに建立されていたことが知られ、おそらく八世紀末に近い時期の創建であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「大隅国分寺跡」の解説

おおすみこくぶんじあと【大隅国分寺跡】


鹿児島県霧島市国分中央にある寺院跡。指定名称は「大隅国分寺跡 附宮田ヶ岡瓦窯跡(つけたりみやたがおかかわらかまあと)」。大隅国分寺跡は、霧島市街地の東端、国分小学校の西に所在する。741年(天平13)の聖武天皇の詔(みことのり)によって建てられた大隅国の国分寺跡。創建は奈良時代末期の8世紀末と推定され、史跡地内には、「康治元年(1142)壬戌11月6日」の銘がある高さ約5mの石造六重層塔1基と2体の仁王像、観音像の願文のある石塔などが残っており、1921年(大正10)に国の史跡に指定され、2004年(平成16)には、姶良(あいら)市船津の宮田ヶ岡瓦窯跡が、大隅国分寺の瓦を作製した窯として追加指定を受けた。国分寺は早くに衰微し、いくどか再建されたものの元禄年間(1688~1704年)の再建が最後で、明治初年の廃仏毀釈(きしゃく)で廃寺となった。創建当時のものと思われる瓦が出土しているが、建物や寺域、伽藍(がらん)配置などの詳細は不明である。宮田ヶ岡瓦窯跡は、別府川河口から約5km上流の位置にあり、右岸台地から延びた丘陵を刳()り抜いて築かれている。窯は3基が確認され、そのうちの第3号窯跡は全長約6.34mの地下式登り窯で、床面には窯詰め用の段が瓦で築かれ、窯詰めされた状態の瓦も3ヵ所で確認された。出土した瓦は2万点を超え、鬼瓦鴟尾(しび)はなく、軒丸瓦(のきまるがわら)・軒平瓦・丸瓦・熨斗瓦(のしがわら)などで、軒丸瓦の文様が大隅国分寺跡出土のものと一致することから、国分寺の瓦窯であることが判明した。国分寺から西へ約15km離れているが、瓦は別府川を船で運ばれたと推定される。大隅国分寺跡へは、JR日豊本線国分駅から徒歩約12分。宮田ヶ岡瓦窯跡へは、JR日豊本線錦江駅から車で約21分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報