天明町(読み)てんみようまち

日本歴史地名大系 「天明町」の解説

天明町
てんみようまち

[現在地名]佐野市天明町・本町ほんちよう大蔵町おおくらちよう大町だいちよう大橋町おおはしちよう金屋仲町かなやなかちよう金井上町かないかみちよう

佐野川の左岸を中心に位置し、右岸の一部を含む。東・北は小屋こや町、南は赤坂あかさか村、西は免鳥めんどり村。例幣使街道が東西に走り、天明宿がある。町は行政面、宿は交通面の呼称。古くは天命・天名・天冥・天猫とも記された。建武三年(一三三六)一二月日の佐野安房一王丸軍忠状(落合文書)に「天命・堀籠合戦」とみえ、同年八月九日当地とその北の堀籠ほりごめで一王丸は阿曾沼朝綱と戦い、朝綱の家人の飯土井四郎を討取っている。康暦二年(一三八〇)小山義政の乱の時には関東府の小山氏討伐軍は武州府中ふちゆう(現東京都府中市)で陣容を整え、武州村岡むらおか(現埼玉県熊谷市)を経て当地に陣を張り、小山氏への攻撃を行っている。この時、烟田重幹は当地の宿直警固を行った(同年一〇月日「烟田重幹軍忠状案」烟田文書)。永徳元年(一三八一)義政の再蜂起の際には、四月二六日武州白旗一揆の塩谷行蓮が当地に着陣した(同二年二月日「塩谷行蓮着到状」中村直勝博士蒐集古文書)

享徳四年(一四五五)六月一三日の足利成氏書状写(正木文書)などによると、同三年一二月に始まる享徳の乱に際し、翌年六月から古河公方足利成氏軍と上杉軍(幕府軍)は当地から只木ただき(現足利市)にかけて陣を構え対峙していたが、一二月の合戦で成氏軍の勝利に帰している。応仁二年(一四六八)と推定される閏一〇月一日には当地に陣を張る那須資持に、成氏と幕府の間の和睦を協議するよう命じている(「足利成氏書状写」那須文書)


天明町
てんめいまち

面積:一九・二八平方キロ

熊本市によって二つの地区に分割された飽託郡の南部地域の南端にあり、西は有明海、北は飽田あきた町、東はわずかに熊本市に接し、南の緑川対岸は宇土うと市である。かつては白川もこの地で海に入っていたと思われ、白川・緑川による堆積土による肥沃な平坦地であるため、古くから開墾干拓の対象となった。その最も古いものは、熊本市川尻かわしり大慈だいじ寺の開山寒巌義尹によるもので、鎌倉時代のことという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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