飽託郡(読み)ほうたくぐん

日本歴史地名大系 「飽託郡」の解説

飽託郡
ほうたくぐん

面積:九四・九四平方キロ
北部ほくぶ町・河内かわち町・飽田あきた町・天明てんめい

郡域は熊本市により大きく二分され、熊本市の北の北部町・河内町と、南の飽田町・天明町は同一郡名を冠するが、地域の性格がまったく違い、同一には論じられない。郡の北域は南端にある金峰きんぼう(六六五メートル)とそれに続く山系の影響で、山がちである。なかでも西寄りの河内町は山が有明海の近くまで迫るため、田畑はきわめて少ない。しかし東寄りの北部町では台地の間を坪井つぼい川や井芹いせり川が南流し、その周辺に水田や畑が開ける。郡の南域は白川緑川の最下流に挟まれたかつての氾濫原で、中世以来の干拓地であり、遠浅の海の埋立が近世・近代を通じて進められてきた。

郡名のもとになった飽田郡は平城宮出土の天平三年(七三一)木簡に郡名があり、託麻たくま郡は養老三年(七一九)の同木簡に郡名がある。明治二九年(一八九六)両郡が合併して飽託郡が成立した。

〔原始・古代〕

原始時代の遺跡は北部町に集中しており、山間部の河内町や、白川・緑川の氾濫原や海であった飽田町・天明町にはきわめて少ない。北部町の井芹川上流域は縄文時代後・晩期の遺跡密集地であり、太郎迫たろうざこ遺跡は同時期の大遺跡で、一四体の土偶の出土、石器製作の遺跡として有名。同時期の四方寄よもき遺跡もあったが、現在ほぼ消滅している。同地域は古墳も多く、釜尾かまお古墳は装飾古墳として著名で、八鉾神社やほこじんじや遺跡の石棺からは銅戈が出土している。古代の官道は現北部町域を南北に通っていたと思われ、「延喜式」(兵部省)諸国駅伝馬にみえる高原たかばる駅は、北部町北端の改寄あらき立石たていしに比定され、駅馬・伝馬各五疋が置かれていた。「和名抄」の飽田郡加幡かはた郷を北部町の西部から河内町の東部にあてる説があり、「日本地理志料」は北部町硯川すずりかわ和泉いずみ・太郎迫・万楽寺まんらくじ、河内町東門寺とうもんじ辺りとする。

〔中世〕

長元二年(一〇二九)沙弥寿妙が開発私領の公験を得たことに始まる鹿子木かのこぎ庄は、北部町を中心とし、熊本市北部と菊池郡西合志にしごうし町の一部にまたがる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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