日本の城がわかる事典 「天神山城」の解説 てんじんやまじょう【天神山城】 埼玉県秩父郡長瀞(ながとろ)町にあった戦国時代の山城(やまじろ)。景勝地として知られる長瀞渓谷(荒川)近くにある、比高約80mの天神山に築かれていた。武蔵七党の一つの猪俣党に属していた北武蔵の豪族藤田重利(のちの康邦)が天文年間(1532~1554年)に築城したとされる。1546年(天文15)に河越夜戦で、山内・扇谷両上杉氏と古河公方の連合軍が北条氏康に敗れたことで、北条氏の武蔵支配が確立。藤田氏はそれまで関東管領山内上杉氏に臣従していたが、重利は1549年(天文18)、北条氏に従属した。しかし、1560年(永禄3)、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東に侵攻すると、これに従ったため、同年、北条氏は天神山城を攻め、これを落城させた。重利は氏康に降伏。氏康四男の氏邦に藤田家の家督を譲り、自らは用土城(大里郡寄居町)に移って用土氏を称した。重利から康邦へ名前を改めたのも、この頃とされている。天神山城に入城した氏邦は1568年(永禄11)から翌年にかけて、鉢形城(大里郡寄居町)に居城を移したが、天神山城はその後も鉢形城の支城として使われた。1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)で鉢形城が降伏・開城すると、同城も開城したといわれる。天神山城は天神山の尾根の最北部に主郭があり、堀切をはさんでもっとも広い二の郭が続き、さらにその先に三の郭があった。また、二の郭の東側斜面には、特徴のある出郭がつくられていた。現在、城跡は山林になっており、こうした縄張りを示す遺構が残っているものの荒廃している。なお、本丸跡にあるコンクリート造りの模擬天守閣は1970年(昭和45)につくられたもので、かつての天神山城を復元したものではない。秩父鉄道野上駅から徒歩約30分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報