室町期~戦国期の城。埼玉県大里郡寄居(よりい)町鉢形にある。城の北西側は荒川に面した高さ100メートルほどの断崖(だんがい)になり、背後をその支流深沢川が流れる天険の要害である。古く平安末~鎌倉初期に源経基(つねもと)や畠山重忠(はたけやましげただ)が拠(よ)っていたという伝承もあるが、史料的に確実なのは1473年(文明5)から76年にかけて長尾景春(ながおかげはる)が築いたとするものである。関東管領山内上杉(かんれいやまのうちうえすぎ)氏と執事長尾(ながお)氏とが城主を争ったが、北条氏綱(うじつな)が山内上杉氏を討ち、藤田康邦(やすくに)を城主とした。城はさらに、康邦の女婿となってこの地に入ってきた北条氏邦(うじくに)によって大規模につくりかえられている。以後、小田原城の支城の一つとして氏邦による鉢形領支配の中心となった。1590年(天正18)、豊臣(とよとみ)秀吉による小田原征伐のとき、前田利家(としいえ)、上杉景勝(かげかつ)らの大軍に攻められ、籠城(ろうじょう)戦のすえ開城し、廃城となった。
[小和田哲男]
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…室町中期の武将。名は資長。道灌は法名。資清の長男。太田氏は,丹波国桑田郡太田郷の出身といい,資清のときに扇谷上杉氏の家宰を務めた。道灌は家宰職を継ぎ,1457年(長禄1)に江戸城を築いて居城とした。76年(文明8)関東管領山内上杉顕定の家宰長尾景信の子景春が,古河公方足利成氏と結んで顕定にそむくと,主君上杉定正とともに,顕定を助けて景春と戦った。77年武蔵江古田・沼袋原に景春の与党豊島泰経らを破り,78年に武蔵小机・鉢形両城を攻略,80年景春の乱を鎮定した。…
…中世・近世には男衾(おぶすま)郡のうち。1476年(文明8)上野白井の長尾景春が主家の山内上杉顕定に反して鉢形城に拠ったが,78年太田道灌がこれを攻略,上杉氏の属城になり,その重臣藤田康邦の支配下におかれた。のち,北条氏康は三男氏邦を藤田氏の養子に入れてその旧領を掌握し,武蔵・上野支配の拠点とした。…
※「鉢形城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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