日本歴史地名大系 「奥内村」の解説 奥内村おくないむら 青森県:むつ市奥内村[現在地名]むつ市奥内朝比奈平(あさひなたい)(二五七・四メートル)に発し、陸奥湾に西流する奥内川の河口付近に位置する。北は田名部(たなぶ)村、南は中野沢(なかのさわ)村と接する。正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に奥内村一二一石余とあり、同年の郷村帳によれば一二一・四二四石のうち一〇六・八二八石が田であった。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高二九六・七石余、うち畑四六・五石余とある。家数六九、うち本村山奥内(やまおくない)五一、支村浜奥内(はまおくない)八―九、二又(ふたまた)八、赤川(あかがわ)一で、人口四三九。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数四六、うち支村浜奥内九、二又五。 奥内村おくうちむら 岡山県:岡山市旧御野郡地区奥内村[現在地名]岡山市奥田(おくだ)・奥田本町(おくだほんまち)・奥田一―二丁目・奥田西町(おくだにしまち)・岡南町(こうなんちよう)一丁目二日市(ふつかいち)村の西に位置し、西は東古松(ひがしふるまつ)村。寛永備前国絵図に村名がみえ、高四三五石余。「備陽記」によると田畑二五町六反余、家数三〇・人数一五九。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高八一三石余、蔵入と家臣三名の給地。田高四〇四石余・畑高八一石余、家数三三、うち二二戸は城下二日市町日蓮宗妙勝(みようしよう)寺、九戸が国富(くにとみ)村真言宗法輪(ほうりん)寺、二戸が城下磨屋(とぎや)町天台宗光珍(こうちん)寺中円明院の檀家。 奥内村おくないむら 青森県:青森市奥内村[現在地名]青森市奥内奥内川流域一帯を占め、集落は松前街道に沿って河口にある。東は陸奥湾に面し、南は瀬戸子(せとし)村、西は中山(なかやま)山脈で小田川(おだがわ)村(現北津軽郡金木町)、北は前田(まえだ)村に接する。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎(いなか)郡の新田に高七七二・八二石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高八七四・八二石、うち田方八二六・九七九石、畑方四七・八四一石、漆一本などが記される。元禄三年(一六九〇)には後潟組に属し、村位は下である(平山日記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by