奥島庄(読み)おくしまのしよう

日本歴史地名大系 「奥島庄」の解説

奥島庄
おくしまのしよう

市の北東部、かつては葦原の湿地により切離されて、琵琶湖に浮ぶ島嶼であった奥島に成立した庄園。庄域は奥島の東半、江戸時代の奥島村・白部しらべ村・王之浜おうのはま村・丸山まるやま村を含む一帯に比定され、現在の沖島おきしま(島である沖島を除く)しま町・白王しらおう町・円山まるやま町などにあたるか。単に島庄とも称された。奥島西部には津田つだ庄が成立。当庄内大島おおしま奥津島おくつしま神社を紐帯として、のちに当庄および津田庄村人(ムラント)は宮座を構成、同社の神事などにおいて島村人と総称されたのは、当庄を構成する奥島・白部・丸山・王之浜など諸村の村人と考えるべきだろう。中世後期に至り、これらの諸村はそれぞれの地域において惣を形成している。

承保元年(一〇七四)「奥島御庄司土師助正」は船木ふなき郷所在の畠地七反を長命ちようめい寺に再施入するための公験を作成しているが(同年三月二日付「近江国奥島庄司解」長命寺文書)、この文書が庄名がみえる早期の史料で、この後、延応元年(一二三九)には尊性法親王家領の一つ奥島庄が、親王の病危急により尊守法親王家門跡相承とされ(同年一二月二五日付「四条天皇宜旨」門葉記)、伝領関係は不明ながら、これがやがて延暦寺領となっていったものと考えられる。一方、建武三年(一三三六)光厳上皇院宣添付の執達状に「粟田宮門跡領近江国奥島庄」とみえるように(華頂要略)、青蓮院門跡も領有関係を有しており、同門跡には名主中より例年の公事として粽が納入されている(永正三年五月四日「馬淵四郎次郎進納状」青蓮院文書)。また山城嵯峨の善入寺も当庄の一部を領した。同寺領については、恵忠法師・尊阿賀丸以下の濫妨を停止し、善入寺長老に知行を安堵した文和元年(一三五二)一一月九日付の後光厳天皇綸旨案および同月一九日付の暹空奉書(いずれも大島・奥津島神社文書、以下断りのない限り同文書)の記載が比較的早期のものと思われる。ところで、「延喜式」大膳職に近江国貢進品目として郁子がみえ、当地の郁子は天智天皇以来との伝承をもつが、当庄の郁子が例年一一月一日に善入寺に納入され、禁裏や幕府へ進献されていたことは注目される(「永享日録」「蔭涼軒日録」など)。当庄には郁子供御人がいて、文安二年(一四四五)と推定される年未詳一一月二一日付の後花園天皇綸旨案およびその添状案(いずれも福井家文書)によればこの年、郁子供御人に対して非分の課役が免除されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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