妻垣神社(読み)つまがけじんじや

日本歴史地名大系 「妻垣神社」の解説

妻垣神社
つまがけじんじや

[現在地名]安心院町妻垣

妻垣南部の妻垣山(共鑰山)麓、字大門だいもんの台地上にある。都麻垣とも記し、妻垣宮・妻垣八幡宮ともいう。比大神・応神天皇・神功皇后を祀り、旧県社。宇佐宮行幸会八ヵ社の一つ。主祭神である比(比売)大神は承和一一年(八四四)六月一七日の宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起(石清水文書)によれば宇佐宮二の殿に祀る比大神と同神で、宇佐宮では妻垣山頂を比大神の元宮と称し、中腹には神体石が鎮座している。当社二殿に祀る応神天皇は天平神護元年(七六五)に、三殿の神功皇后は天長年間(八二四―八三四)に勧請したといわれる。長保五年(一〇〇三)八月一九日の宇佐宮司解(宮寺縁事抄)には行幸会八ヵ社の一として「爪掻社」とみえる。行幸会については永享五年(一四三三)一二月一三日の宇佐宮寺造営并神事法会再興日記や元和二年(一六一六)の行幸会記并年中神事覚書(いずれも到津文書)などに詳しいが、当社へは七番目の巡幸である。

鎌倉時代成立の宇佐宮神領次第案(到津文書)に「妻垣社免十七丁五段本免十五丁 新免十五丁」とみえる。承久三年(一二二一)の下毛庄検田目録(永弘文書)によれば妻垣社免田のうち五町余は下毛庄内にあった。また康元二年(一二五七)閏三月一八日、妻垣座主坊宛に出された玄蕃助某書状(矢野文書)によると当社の敷地を社司分二町と座主分八町に分配している。貞治五年(一三六六)四月には今川駿河守が禁制(矢野文書)を下している。しかしその後武士による押領が進み、文安五年(一四四八)三月のものと思われる二三日の妻垣社祝神事日記(矢野文書)には一八の神事に対応する一八筆の神田合計は四町二反三〇代となり、大永三年(一五二三)九月一一日の宇佐宮惣検校益永某書状案(宮成文書)では神田が一町五反となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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