石垣庄(読み)いしがきのしよう

日本歴史地名大系 「石垣庄」の解説

石垣庄
いしがきのしよう

有田川の中流から上流、現金屋町一帯を荘域とした。「性霊集」巻九所収の承和元年(八三四)九月一五日付高野四至啓白文に「在紀伊国在田郡石垣上庄、一処四至有」と注記されているが、この啓白文を空海撰とするには疑問が多い。延喜の荘園整理令以前の荘園として「或時為親王之領、或時為丞相之庄、加以卿相以下五品以上、代々伝領、世々領掌、然而専無徴租税、永為不輸租田之庄、是則山川嶮難之地、公田相交之故也」(正暦四年八月二八日「紀伊国符案」又続宝簡集)というが、延喜以前の歴史は明らかではない。確実な文献の初見は正暦三年(九九二)四月日付石垣上庄立券文案(同集・正智院文書)で、これによれば、左大臣藤原仲平の遺領であったが、天慶九年(九四六)上・下庄に分割。上庄は仲平の女明子、その女源延光室と伝領されたあと、右大弁兼内蔵頭平惟仲が価直米一千八〇〇石で買得した。この石垣上庄が、あてがわ(現清水町)である。惟仲は下庄も入手しており、前掲正暦四年の国符で不輸租田と検田使入勘停止が認められている。次いで長保三年(一〇〇一)六月二六日付で、惟仲はみずから建立した京都白川寺喜多院(寂楽寺)に、他の所領とともに、石垣上庄(阿河庄)、石垣庄、下野しもの(現吉備町)を施入した(「中納言平惟仲手印文書案」又続宝簡集)


石垣庄
いしがきのしよう

現別府市の中部にあった近世の南石垣村・北石垣村・中石垣村一帯に比定される宇佐宮領庄園。「宇佐大鏡」に宇佐宮の根本庄園である「本御庄十八箇所」の一つとして書上げられ、田数は一五〇町で「用作六丁四反イ三丁五反十」と記されている。建久四年(一一九三)二月一五日の豊後国留守所下文案(宮内庁書陵部八幡宮関係文書)には「石垣庄二百余丁」とあり、造宇佐宮南楼作料粮米として絹六二六疋四丈・米三八石が課せられている。同八年のものと思われる豊後国図田帳宇佐宮弥勒寺領抜書案(到津文書)に「石垣郷百五十余丁 宇佐宮領 弁済使神官栄定 地頭宮沙汰」とあるが、豊後国弘安図田帳には「石垣庄二百町、本庄百四十町 宇(宮脱)領、領主神官名主等、別府六十町 地頭職名越備前(宗長)左近太夫殿」とある。また豊後国弘安田代注進状は本庄一四〇町・弁分六〇町とする。庄の面積が史料により五〇町ほど異なるのは弁分(別府)を含むか含まないかの違いのようである。宇佐宮・弥勒寺領における弁分は宇佐宮の放生会等の祭礼などが割当てられる特殊な大規模名で、散在的であり独自な領域をもたない場合が多いが、石垣庄弁分はその規模も大きくまとまっていたので、戦国時代頃には石垣別符ともよばれるようになり、この別符の言葉が今日の別府の地名の起源となった。


石垣庄
いしがきのしよう

荘域は近世の石垣村に比定される。西流するたま川を挟んで北に東大寺玉井たまのい庄と円提えんてい(井手寺)があった。立荘年代は明らかでないが、天喜四年(一〇五六)七月二日付で石垣庄の庄司橘氏らが円提寺目代の井水関留に関して訴えた石垣荘住人等解案(東大寺文書)がある。同解案はこの年円提寺にやってきた新目代の良らが玉川の井水を下へ流さず、ために石垣庄は旱損が極まりないと述べ、円提寺目代の横暴を本家政所が裁下するよう願っている。

この頃石垣庄は藤大納言(藤原信家か)領であったと思われ、同年八月玉井庄の田堵らが用水の分水をめぐって本寺(東大寺)政所に裁許を請うた玉井荘田堵等解(百巻本東大寺文書)に相論の相手を「井手寺井并藤大納言殿御領」と記し、これに関連する年月日欠(後欠)玉井荘下司田堵等解(東大寺文書)では「円提寺并石垣御庄」としている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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