子浦町(読み)しおまち

日本歴史地名大系 「子浦町」の解説

子浦町
しおまち

[現在地名]志雄町子浦

現志雄町の中心集落で、内浦街道うす峰氷見みねひみ街道の結節点にあたり、北東端を子浦川が西流する。中世以来の宿場町で志雄町とも書かれ、志雄保地頭飯尾氏の代官和田紹賢の館があった。戦国期には東・西二町からなり、それぞれに代官がいて気多神社神幸役銭の収納などに当たり、町内に紙屋玉屋・中屋・駒屋・高屋・紺屋などの屋号を有する商家があった(気多神社文書)。火災の頻発する地で、地名に充当する文字をたびたび変えたと伝え、元禄一四年(一七〇一)の荻谷村十村書上(岡部文書)にも「村名の字たたり申由にて明暦年中に文字替り子浦町と書申上候」と記され、火伏せの秋葉社が四ヵ所に祀られていた(志雄町史)

正保郷帳には志雄東町と志雄西町が記される。東町の高四九四石余、田方二三町・畑方九町九反余・免四ツ八歩八厘、新田高二〇石余(免四ツ八歩)。西町の高七〇三石余、田方三六町・畑方一〇町九反余・免四ツ一歩一厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では子浦町の高一千二六四石、免五ツ五歩、新田高四三石で、小物成は山役一貫八八匁、鳥役二〇目(出来)のほか在郷町らしく紺屋役七五匁(ほかに退転三〇目)鍛冶役二二匁、室役六〇目(ほかに退転三〇目)、油役二二匁(同二匁)、酒役二〇目余を賦課されていた(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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