宇龍浦(読み)うりゆううら

日本歴史地名大系 「宇龍浦」の解説

宇龍浦
うりゆううら

[現在地名]大社町宇龍

島根半島の北西端、日御碕ひのみさきの東に位置し、北は日本海に臨む。古代以来の良港として栄え、「出雲国風土記」に出雲郡宇礼保うれほ浦とみえる。中世には杵築大社(出雲大社)領一二郷七浦の一つで、宇料・得龍などとも記す。中世日本海水運の成立と発展に伴って本格的に成立した港を宇料津・宇龍津などと称した。

〔古代・中世〕

風土記では宇礼保浦は「広さ七十八歩あり。船二十許泊つべし」と記され、かなりの良港であったことがうかがえる。なお同書にみえる爾比にひ埼は現在の宇龍漁港北東に位置する桁掛けたかけ半島、米結めえ浜は同半島南方の目井めい浜に比定され、山埼やまさき子負こおい島も宇龍漁港付近とみられる。中世の津としての初見は、永和元年(一三七五)四月日の国造北島資孝代国孝目安状(千家家文書)に杵築大社領内の「宇料津号林宮物申并専当職、(中略)当津折中之間、前専当権守入道法名西光、又次郎信安、父子二代為両方役人、致其沙汰之畢」とみえ、「当津折中」とは南北朝初期における出雲国造家の千家・北島両家への分裂に際し、浦々も両家で折半されたことを示す(康永三年六月五日「千家孝宗北島貞孝連署和与状」同文書)。しかし実際の支配には両国造家から任命された人物が専当職として知行に当たっており、ここに位置する神社(林宮)についても、物申(神主)が任命され、その管理に当たった。

一方、宇龍が日御崎社(現日御碕神社)と近接しているため南北朝期以後における日御崎社の杵築大社からの自立化に伴って、日御崎・杵築両社の間でその領有をめぐる境相論が展開された。応永三二年(一四二五)六月二六日の御崎一起請文(千家家文書)には、「うれう・みさきの境の事ハ、古所にて候峯のたふをさかふ、南の山昔の本境あり」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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