日本歴史地名大系 「安住寺村」の解説 安住寺村あんじゆうじむら 大分県:杵築市安住寺村[現在地名]杵築市南杵築(みなみきつき)杵築城下の南西、寺町(てらまち)口番所の西方の村。安住寺の開発または所有の村ともいう。八坂(やさか)川河口にあって、杵築城下より日出(ひじ)城(現日出町)城下に通ずる八坂川の渡船場である近松寺(きんしようじ)渡に接する。慶長六年(一六〇一)の木付城付知行分目録(松井家文書)の木付下(きつきしも)庄のうちに村名がみえ、高七〇石余。小倉藩慶長人畜改帳では「安住寺村下原共ニ」とあり、家数一六・人数三二(うち本百姓六、男子・名子五)、牛七。小倉藩元和人畜改帳では同じく「下原村共ニ」として、高一二四石余、家数一八・人数七五(うち庄屋一・百姓一七・名子六)、牛一二・馬一。 安住寺村あんじゆうじむら 兵庫県:三原郡緑町安住寺村[現在地名]緑町倭文安住寺(しとおりあんじゆうじ)庄田(しようだ)村の北、安住寺川流域の山間にある。永正一八年(一五二一)六月四日、淡路屋与三二郎光之から中嶋北殿へ質入れされた伊勢道者株のうちに、「あんちう寺の二郎大夫殿」の名がみえる(「道者売券」来田文書)。当村の旧名は助吉(すけよし)村で、承応年間(一六五二―五五)に改称したという(味地草)。だが寛永四年(一六二七)の安住寺村検地帳(緑町役場蔵)が残り、高二三七石余、反別は田一九町余・畠三町余。正保国絵図にも安住寺村とあり、高二四八石余。天保郷帳では高二五一石余。委文組に属した。「味地草」では家数六一。反別戸数取調書によれば反別三〇町四反余、高三〇九石余、うち蔵入高六〇石余・給知高一三一石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by