庄田村(読み)しようだむら

日本歴史地名大系 「庄田村」の解説

庄田村
しようだむら

[現在地名]久居市庄田町

雲出くもず川に長野ながの川が流入する辺り、その北岸を主としつつ、南岸にもまたがる村で、戸木へき村の西に隣接する。庄田はその中心をなす集落で、その北方に沓掛くつかけ、東方に出家でや、雲出川を南へ渡った対岸に中川原なかがわら、長野川を西へ渡った対岸に入田にゆうだの四つの枝村があり、村内北部丘陵の通称塩見しおみ坂を奈良道が通る。庄田の地名を冠した人物として「五鈴遺響」は「吾妻鏡」元久元年(一二〇四)四月二一日条に、幕府軍によって多気たけ郡で討伐せられた平家残党庄田三郎佐房・子息師持をあげ、この地に由来する一族と比定しているが、庄田姓の武士としてはそのほかにも「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二九日条に、公卿勅使伊勢国駅家雑事を勤仕せざる荘として「吉光名 庄田太郎家房」との記載があり、庄田三郎と「房」の字を共通にする点からみて同族と推定される。彼らはいずれも伊勢国中部での事件にかかわっているところをみると、「五鈴遺響」のいうように、当地出身の武士と考えてよいであろう。

庄田の地名は、正和三年(一三一四)六波羅探題下知状(金沢文庫蔵)にも「伊勢国守護領庄田方地頭代浄慶申」との記事があり、当村に比定される。


庄田村
しようだむら

[現在地名]佐川町庄田

佐川盆地を流れ出た柳瀬やなぜ川に支流二ッ野ふたつの(中野川)が合流する地にある。柳瀬川を隔てて東にある八幡やはた村を併せて庄田村ということもあり、時として二村を八幡村ということもあった。「土佐州郡志」は八幡村を庄田村の小村とし、庄田村について「東限瑞応村界蔵掛石、西限越知村越舩峠、南限三野村、北限黒岩、東西二十二町余、南北二十町余、戸凡四十余、其土黒」と記す。


庄田村
しようだむら

[現在地名]緑町倭文庄田しとおりしようだ

土居どい村の西、三原川支流倭文川と安住寺あんじゆうじ川の合流点付近一帯にある。正保国絵図に庄田村とみえ、高三八四石余。天保郷帳では高四三七石余。委文組に属した。「味地草」では家数八八。反別戸数取調書によれば反別四七町余、高四七九石余、うち蔵入高七九石余・給知高四〇二石余。給人は福田始三郎ら一一名。ほかに八幡社領一石余があった。家数九一・人数四五五。当村庄屋加地氏は委文組の組頭庄屋を勤めた。明治一〇年(一八七七)土居村安住寺村を合併。


庄田村
しようでんむら

[現在地名]武生市庄田町

日野山北麓の平林ひらばやし村の北にあり、東は大手おおて村。府中と味真野あじまのとを結ぶ府中道のほぼ中間に位置する。中世の西谷にしたに庄内の一村で、慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図でも西谷庄に含まれる。村名は正保郷帳には「庄村」としてみえ、元禄郷帳以降「庄田村」と記される。北にある千僧供せんぞく庄内の庄村と区別するためであろう。正保郷帳によると田方四六九石余・畠方一八石余。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、元禄五年(一六九二)から一時土岐頼殷領となるが、享保六年(一七二一)以降鯖江藩領。

享保六年庄田村明細書写(河端家蔵)によれば、田方一八町五段余で四五六石余(うち一一石余午砂入引)、畠方一町一段余で一八石余。


庄田村
しようだむら

[現在地名]美山町大字福居ふくい 庄田

つるおか一九ヵ村の一。棚野たなの川の支流山森やまもり川左岸にある山間集落。北(上流)わき村、川を下ると田土たど村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属する地。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村ののむら庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが(大正一二年「京都府北桑田郡誌」)、史料などによる確証はない。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)より篠山藩領となる。


庄田村
しようだむら

[現在地名]邑久町庄田

東西に走る断層谷に沿っており、東はさいノ峠を越えて福谷ふくたに村、北は東西に連なる山塊を境に東須恵ひがしすえ(現長船町)、南は尻海しりみ村に接する。西は佐井田さいだ村を経て千町せんちよう平野へ出る。当地には朝日ちようにち寺があり、その名にちなんで古くは朝日寺村とよんだようで、「吉備温故秘録」にも「古へは朝日寺」とある。寛永備前国絵図に朝日寺村とみえ、高一四八石余。元禄郷帳には庄田村とみえており、元禄期(一六八八―一七〇四)までに村名替えがあったものとおもわれる。「備陽記」によれば、田畑一七町五反余、家数四七・人数二六六。文化年間の「岡山藩領手鑑」では、直高二五九石余で家老伊木氏の給地。反別は田一三町三反余・畑四町五反余、家数八一・人数三六二、牛三三、寺一(朝日寺)、社方家一、宮二、樋二五(守給五斗二升・一〇人割)、板橋一・石橋二・土橋四、古寺跡七、池二五、猟師鉄砲一。


庄田村
しようだむら

[現在地名]岡山市庄田

山内やまのうち村の東に位置し、東は真星まなぼし村。正保郷帳に足守藩領真星村の枝村の一つに庄田村とある。貞享二年(一六八五)賀陽郡・上房郡寺社改帳(総社市史編さん室蔵)によれば高一四五石余、家数二八・人数一六六、うち男九三・女七三。氏神は天神社で、社僧は河原かわはら松井まつい寺と下高田しもたかた実相じつそう(現実相寺)


庄田村
しようだむら

[現在地名]姫路市庄田

飾東しきとう郡に所属。いち川下流の右岸に位置し、北は北条ほうじよう村。天正九年(一五八一)九月九日の惣社集日記(智恵袋)によれば、大永元年(永正一八年、一五二一)七月の惣社(射楯兵主神社)神踊に「庄田村」など一二ヵ村が参加している。江戸時代を通して姫路藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android