デジタル大辞泉
「杵築市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
Sponserd by 
杵築市
きつきし
面積:九〇・一七平方キロ(境界未定)
国東半島の南東部にあり、東は白砂青松の住吉浜・奈多浜の海岸線をもち、東国東郡安岐町、北は海岸より望見できる山岳までとして西国東郡大田村、西は八坂川の下流域までとし速見郡日出町・山香町に接する。
〔原始〕
縄文遺跡として早期の稲荷山遺跡と後期の神領貝塚・東貝塚が知られる。弥生時代の野田の新宮寺遺跡からは細形銅剣が発見されている。古墳は県下最大の前期前方後円墳小熊山古墳、中期の大円墳御塔山古墳をはじめ小規模石室をもつ群集墳が多く、七双子・的場・大平各古墳をはじめ、未掘を含めて二〇〇余がある。副葬品には捩文鏡・方格規矩文鏡・獅噛環頭太刀等が発見されている。
〔古代〕
「和名抄」の速見郡には八坂・大神・山香・朝見・由布の五郷があり、八坂郷は現市域の中心部にあたるといわれ、大片平は山香郷、鹿倉・出原の一部と相原は大神郷に属していた。高山川以東の旧国東郡地域は安岐郷に属していた。平安時代に入り庄園化が進むと、国東半島は宇佐宮および宇佐弥勒寺の庄園となったが、八坂郷も八坂庄となる。豊後国弘安図田帳には「八坂荘二百町 宇佐弥勒寺領」とある。安岐郷は宇佐宮庄園となり、奈多宮創立により奈多宮庄園になったと伝えられる。奈多宮は宇佐宮の三柱神の一神である比売大神の出現した地と称し(「奈多宮旧記」奈多宮蔵)、本社の宇佐宮と同等の格式と称している。宇佐行幸会にあたっては宇佐宮の旧神体を奈多宮に奉遷する行事があり、供廻り二千人、二一日間にわたる大行事で、奈多宮と宇佐宮の関係が推測される。八坂庄の若宮八幡社は山城石清水八幡宮の末社で、石清水に八幡を創建するのに際し、その維持のため八坂庄を寄進したが、遠路のため貢物の輸送も思うにまかせず、よって若宮を奉遷したと伝える(「若宮八幡社由緒記」木田家文書)。
〔中世〕
弘安図田帳によれば、八坂庄は宇佐宮領で、秋吉氏が地頭職を得て八坂氏を名乗っている(秋吉文書)。同図田帳では「八坂荘二百町」は宇佐弥勒寺領、「下荘百町」は領家八幡検校法印女子、「本荘五十五町」は八坂惟継跡配分とあり、「新荘四十五町」も惟継嫡孫相続である。そして「若富名五町二反」は本庄地域に入るが、とくに大友兵庫入道の領地となる。木付氏は大友氏二代親秀の六男親重が建長二年(一二五〇)木付に封ぜられて、地名をとって木付を姓としたと伝えるが不明。弘安図田帳は建長二年より三五年後の弘安八年(一二八五)に書かれているが、木付氏や木付庄の記録はない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
杵築〔市〕
きつき
大分県北東部,国東半島の南部,別府湾に面する市。山林原野が大半を占めるが,海岸の続く南東部にいたるまで,多様な地形が広がる。 1955年杵築町と八坂村,北杵築村,奈狩江村の3村が合体して市制。 2005年山香町と大田村と合体。南東にある中心市街地の杵築は,室町時代初期から文禄2 (1593) 年にわたって大友一族の木付氏 (きつきうじ) の根拠地。その滅亡後は杉原氏,早川氏,細川氏,小笠原氏の支配を経て,正保2 (1645) 年以来松平氏3万 7000石の城下町として発展。八坂川と高山川に挟まれた洪積台地の突端に杵築城 (城山公園) があり,周囲の台地に石畳のある武家屋敷の跡を残す。西部には石仏や板碑などが点在し,仏教文化の名残りがみられる。杵築藩の殖産奨励によるシチトウイ (七島藺)の栽培で知られた。第2次世界大戦後はミカン栽培が発達し,ハウスミカンは特産品。また,ウシ,チャ (茶) ,花などの生産も盛ん。 1964年新産業都市大分地区に入る。おもな工業は清酒,醤油,ミカンの缶詰などの食品工業や精密機械工業。 1983年県北国東テクノポリスに指定されて以来,先端技術産業が発展。田原家五重塔,財前家宝塔,石丸の宝塔 (国東塔) は国の重要文化財。若宮八幡社の若宮楽,御田植祭,奈多八幡社の御田植祭 (花の祭) などが伝わる。白鬚田原神社は毎年秋のどぶろく祭りで有名。南東部の丘陵地には七双子古墳がある。杵築湾に延びる半島には住吉浜リゾートパークがあり,海のレジャー基地となっている。 JR日豊本線が通り,国道 213号線が海岸沿いを,国道 10号線が南部から北西部にかけて走る。大分空港道路の杵築インターチェンジがある。面積 280.08km2。人口 2万7999(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 