下原村(読み)しもばるむら

日本歴史地名大系 「下原村」の解説

下原村
しもばるむら

[現在地名]一の宮町中通なかどおりおぎくさ

ぞうはなの南方の火口原の平野と外輪山の原野からなり、東は三箇さんが村・手野ての村・尾籠おごもり村、西は小野田おのだ村・山田やまだ(現阿蘇町)、南は井手いで村と接する。文安五年(一四四八)八月一八日の阿蘇社造営木屋勤仕人数番定(阿蘇家文書)では、二三番編成の二一番に「御嶽より御知行 井手下原」とあり、当地は井手郷に属し、御嶽すなわち山上の知行地であった。文明(一四六九―八七)頃は岩下和泉が下原代官であったが、年未詳九月六日の阿蘇社中司連署状(西巌殿寺文書)によると和泉は代官職を改易され、当人の嘆願や阿蘇大宮司の一族と推定される刑部様や光永殿様の仲介によって、当年の作毛はさしおくべきことを山上の衆徒が議されるよう求めている。この件と関連するか明らかでないが、応仁―文明(一四六七―八七)頃と思われる阿蘇惟歳の三通の書状がある。一月一九日の了覚坊宛書状(同文書)には「下原之内うき免候なる、自今以後者、彼田地事、誰々にても御座候へ、一老可為御計由、御談合可然候」とある。二月二〇日の書状(同文書)には、下原代官分事とあって「自旧例御嶽より御知行事候間、何も可為御同前候哉」と下原代官分を山上衆徒が知行するとみえ、「田地事、如御意分付申候へと被申候」とある。三月二七日の書状(阿蘇家文書)は供僧一和尚契恩に宛てたもので「下原田地事(中略)早々御知行可然候」とあり、当地の田地を一和尚の知行としている。

下原村
しもはらむら

[現在地名]庄原市七塚ななつか

恵蘇えそ郡の南部、国兼くにかね川中流域南東部に位置し、北東に向かって平地が開け、南東は七塚原ななつかはら高原に連なる丘陵が迫る。北西は国兼川を境として田原たわら村・殿垣内とのごうち村に接し、北東は上原かみはら村、また南の一部は三谿みたに仁賀にか(現双三郡三良坂町)に接する。地名は正嘉二年(一二五八)一二月二三日の将軍家政所下文(山内首藤家文書)に「地庄内下原村」とみえる。また文永七年(一二七〇)六月一三日の関東下知状(同文書)にみえる原下はらのしも村も当村をさすと思われる。村域南部の丘陵地には大唱山おおなるやま古墳群(一五基)をはじめ、多数の古墳が分布し、総数数百基に及ぶとみられる。土師器・須恵器は各所から出土しており、七塚古墳では金環・管玉・大小の直刀などが出土した。

中世にはじび庄南部に位置し、承久三年(一二二一)七月二六日の関東下知状(山内首藤家文書)によると、承久の乱に際し、地庄の地頭山内重俊の子は兄俊業が上皇方、弟宗俊が幕府方となり参戦したが、戦死した俊業の子時業は、正嘉二年地庄地頭職の一部として下原村地頭職、半矢はんのや一色田(現比婆郡比和町)などを分割して与えられた。

下原村
しもばらむら

[現在地名]成羽町下原

鶴首かくしゆ(三三八メートル)愛宕あたご(三七〇・八メートル)の北麓に位置。成羽川の氾濫原に展開する村で、成羽藩・旗本山崎氏の陣屋町として繁栄した。北対岸は成羽村。寛永備中国絵図に村名がみえ、村高二五六石余で山崎家治先知とある。正保郷帳では幕府領、万治元年(一六五八)以降旗本山崎領となり幕末に至る。延享三年(一七四六)の成羽陣屋覚書(妹尾文書)によると村域は東西一九町一四間・南北九町二六間で、高二五六石余、畑方のみで反別三七町三反余、小物成として漆四八三匁・蝋四八三匁がある。

下原村
しもばるむら

[現在地名]安岐町下原

東は伊予灘に面し、北は糸原いとはる(現武蔵町)、西は馬場ばば村、南は荒木あらき川を隔てて塩屋しおや村と対する。集落は安岐川河口左岸に展開し、下原村と浦下原うらしもばる村に分れていた。浦下原村は安岐浦・下原湊として国東一一浦の一つ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、蔵納分は高二七八石余、家数五六、うち百姓一六、隠居・名子・下人・庭屋・へ屋・牛屋三九、人数九〇、うち百姓一六・名子六、牛一四・馬一。

下原村
しもばらむら

[現在地名]総社市下原

高梁たかはし川の右岸、新本しんぽん川が南流して合流する地域に位置する。吉備津神社の流鏑馬料足納帳に康正三年(一四五七)分として三貫文を下原より直納とあり、路銭は三〇〇文であった。戦国末期には明石兵部が城主の勝山かつやま城があった(備中府志)。寛永備中国絵図では高三五六石余で岡山藩領、枝村に八代やしろがみえる。宝永五年(一七〇八)同藩生坂領となり(撮要録)、幕末に至る。正保郷帳には枝村を社村と記す。享保六年(一七二一)の高三五六石余、池三、田畠四四町二反余、家数一一三・人数七二一(備陽記)

下原村
しもばらむら

[現在地名]猪名川町はら松尾台まつおだい

柏梨田かしうだ村の北東に位置し、北東は上原かんばら村。中世は上原村とともに原郷と称して多田ただ庄内の郷村であった。慶長国絵図に「下原村」とみえ、高は上原村と一括で二九五石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では「上下原村」と記される。正保郷帳では下原村として高一八九石余とある。領主の変遷は柏梨田村とほぼ同様であるが、貞享三年(一六八六)から元禄七年(一六九四)までは武蔵忍藩領(「川西市史」など)

下原村
しもばらむら

[現在地名]鏡野町下原

吉井川と香々美かがみ川の合流点南側にあり、東は吉原よしはら村・古川ふるかわ村、西は薪森原たきぎもりばら村、南は宮尾みやお村・領家りようけ(現久米郡久米町)に接する。正保郷帳に高八一七石余、うち田方七二二石余・畑方九五石とある。「作陽誌」では家数七〇・人数三二九。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高一九二石余、開高二九石余。文政元年(一八一八)の津山領郷村帳では一千五六石余。

下原村
しもばるむら

[現在地名]厳原町下原

小茂田こもだの東に位置し、佐須さす川流域の平野部にあり、佐須の本郷とみられる。中世の佐須郡の政庁は当地にあり、対馬六観音の一つを安置する佐須院観音堂も置かれた(明治初期樫根に移建)。枝郷に若田わかた士富しとみ鶴野つるの日見ひみがあり(津島紀事)、日見は古代以来の銀山で知られ、古坑が多く、「しき」と俗称され、鶴野は製錬所が置かれて床屋とこやと称された。寛文二年(一六六二)検地帳に佐須郡下原村とみえ、高三四石余。

下原村
しもばらむら

[現在地名]利賀村下原

北原きたばら村の西、庄川左岸に位置し五箇山ごかやまのうち平野部へいちばん近い。北原村との間に籠渡がある。南西は栃原とちはら村、北は八乙女やおとめ(七五一・八メートル)裾の杉谷新すぎたにしん(現井波町)。同村まで三四町(村々道程駄賃付「十村宅左衛門覚書」寿川区有文書)。正保郷帳に村名がみえ高九四石余、畑方のみで六町三反余。明暦二年(一六五六)の免四ツ五歩九厘余、同年以後、納所金子一八両二匁六分余・塩硝役金子一両一匁三分余・手上金子四匁余、蝋・漆・蓑・紙役金子一両五分余、計二一両四匁二分余を課せられており、この代銀一貫二一匁余を夏成・冬成の両度に納めた(天保一〇年「草高免付百姓数品々帳」利賀村公民館蔵)

下原村
しもはらむら

[現在地名]大原町下原

柳戸やなぎど村の東に位置し、平坦地の村内を落合おちあい川が北東流する。もと新田野につたの村の枝郷であったが、寛永一〇年(一六三三)に本村が旗本榊原領に分給された際分村したとみられる。領主の変遷は新田野村に同じ。慶安三年(一六五〇)の口上書(渡辺家文書)に下原村とみえ、高六七石余、反別は田畑一五町、田地は細尾ほそお村域と錯綜していた。延宝二年(一六七四)の田方水帳(越川家文書)が伝存する。元禄郷帳には「新田野村枝郷」の頭注つきで村名がみえ、高六七石余。

下原村
しもはらむら

[現在地名]柏崎市下原・はら町・小金こがね町・春日かすが三丁目・槙原まきはら町・橋場はしば

鯖石さばいし川の下流西南岸に位置し、東は上原村、西は橋場村。文明一八年(一四八六)八月二一日の屋五郎吉信寺領寄進状(普光寺文書)には当地の普光ふこう寺に対し「上牧原」のうちに寺屋敷が寄進されている。延徳三年(一四九一)一一月二八日の那智等五名連署寺領寄進状(同文書)にも「牧原之野普光寺」、明応二年(一四九三)四月一〇日の越後守護代長尾能景安堵状(同文書)に「牧之百姓」とあって普光寺の所在する一帯を牧原まきはら・牧と称していた。この範囲は当地を含めて上原・橋場・春日に至る鯖石川下流西岸一帯をさすと推定される。

下原村
しもばらむら

[現在地名]和気町いずみ

金剛こんごう川右岸にあり、東は藤野ふじの村、西は野吉のよし村に接し、南は金剛川を挟み日室ひむろ村。天正一七年(一五八九)六月二七日の安養寺正税帳および翌一八年八月の安養寺坪付(以上安養寺文書)に「下原」の与三郎・孫九郎・源次などの名がみえる。慶長一八年(一六一三)和気郡御勘定帳に本庄内として村名がみえ、物成三六石余、夫米二石余。寛永備前国絵図では高一一五石余。「備陽記」によると田畑一〇町八反、家数四九・人数三四四。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一五九石余、蔵入。二口高一三八石余・残高一二九石余、反別田四町余・畑六町七反余、家数四六、うち野吉のよし村の安養あんよう寺吉祥院檀家三〇、同寺本智院檀家一六、人数一八七、牛一七、池三、板橋一、紺屋一〇・藍瓶一〇、猟師鉄砲一。

下原村
しもばらむら

[現在地名]気高町下原

八幡やわた村の西、逢坂おうさか谷口部の西方山麓に位置する。南は会下えげ村。逢坂谷奥部の原井出上はらいでのかみ(上原村)に対し、原井手下村と称していたが、のち略して下原としたという(因幡志)。拝領高は三二五石余、本免は四ツ九分。藪役銀三匁六分が課せられ(藩史)、鳥飼氏・河嶋氏・長門氏・広沢氏・高原氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によると家数三二。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高三九二石余、竈数三四。

下原村
しもばらむら

[現在地名]綾部市下原町

山家やまが村の枝村で、由良川左岸の段丘上に位置する。東は上原かんばら村、西は和木わぎ村。南に三郡みこおりヶ嶽(四九七メートル余)がある。何鹿いかるが・船井・天田三郡の境界のためにこの名がある。

中世は「原村」(「何鹿郡所領注文」安国寺文書)とよばれた地域と推定される。戦国時代は当村に白波瀬備前守が館を構え(堀ノ本)、山家城の和久氏と結び、船井郡八木やぎ(現八木町)城主内藤氏の襲撃を奇策で撃退したと伝え(白波瀬記)禅定ぜんじよう庵・槍場やりばなるなどの古跡がある。

下原村
しもばるむら

[現在地名]東区下原・下原一―五丁目・香椎駅東かしいえきひがし三―四丁目・唐原とうのはる七丁目・松香台まつかだい一―二丁目など

裏粕屋うらかすや郡に所属。立花たちばな山の西麓、香椎村の北に位置する。「続風土記」は唐原村を枝村とし、村内に秋山あきやま町があると記す。小早川時代の指出前之帳では下原村の田三九町六反余(分米六〇七石余)・畠二五町三反余(分大豆一三一石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千一〇〇石余、うち大豆二二四石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高一千一六四石余・反別一〇〇町九反余、家数五九・寺二、人数三八七(田圃志)

下原村
しもばるむら

[現在地名]鹿央町ひろ

北流する岩原いわばる川の左岸、下原台地の東端斜面に立地し、東は広村・千田ちだ村、西は堂米野どうめの村と接する。近世は玉名たまな郡中富手永に属する。寛永一六年(一六三九)の地撫帳によると田三町六反余・畠一三町四反九畝余、高一三八石二斗余、下ケ名に天神免などがある。文化一一年(一八一四)中富手永手鑑では野開畑三町六反三畝余などがあり、家数二四・人数一〇一、馬二三。字下屋敷しもやしきに下原菅原神社がある。

下原村
しものはらむら

[現在地名]下諏訪町下の原しものはら落合おちあい萩倉はぎくら樋橋とよはし

現下諏訪町の北部、湯之ゆの町から北へ中山道と川に沿い餅屋もちやに至る山間の村で、この中に落合・萩倉・樋橋などの小集落を含んでいる。

天正一八年(一五九〇)の諏訪郡御検地御高帳(諏訪郡諸村並旧蹟年代記)には「高三百弐拾四石九斗八升 下之原郷」とあり、享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には「家数八拾七軒 高三百六拾七石六斗四升四合九勺 萩倉新田 家数拾軒 樋橋 家数六軒 餅屋 家数四軒」と記されている。

下原村
しもはらむら

[現在地名]春日井市下原町・西山にしやま町・東山ひがしやま町・南下原みなみしもはら

北は大草おおくさ(現小牧市)に隣接する。東部丘陵地には古窯跡が一〇基近くある。古窯発掘調査によれば二子山ふたごやま古墳の周囲から出土した円筒埴輪がここで焼かれたことが判明した。村落は東島・西島・南島・北島に分れる。寛文一一年(一六七一)の家数八四、人数七三六(寛文覚書)。「徇行記」によると、田は四三町三反六畝余、畑は八町九反九畝余で概高九一一石余は成瀬隼人正の知行地。

下原村
しもばるむら

[現在地名]杵築市南杵築みなみきつき

杵築城下武家屋敷の南台馬場ばばちようの西方にあり、台地上の畑地に点在する。慶長六年(一六〇一)の木付城付知行分目録(松井家文書)に下原村とみえ、高七五石余。小倉藩慶長人畜改帳では木付下きつきしも庄に属し、「安住寺村下原共ニ」とある。元禄郷帳では高一四石余の小村である。

下原村
しもはらむら

[現在地名]六日町下原

上原村の西、北は枝村の下原新田、西はいずみ村、南は新堀にいぼり村。中央を城内じようない谷奥地へ至る道と旧三国みくに街道が交差する。正保国絵図に村名がみえ、高二七〇石余。天和三年郷帳では高二五四石七斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では下原新田ともに田二一町七反余・畑二五町五反余。

下原村
しもばるむら

[現在地名]豊津町下原

呰見あざみ村の南、はらい川東岸の段丘上に位置する。中津街道から分岐して英彦ひこ山に至る道が南北に通る。もとは南西方にある上原かんばる村と同一村であったが、中間地の綾野あやの村が分村したため上原・下原に分れたとの説があるが(京都郡誌)、未詳。元和八年人畜改帳では御蔵納分の高一一六石余、給人一人(召上地)分の高一〇〇石、給人一人分の高五〇石の三筆に分けられ、家数一四・人数四八(うち庄屋二・百姓二・名子二)、牛七・馬一。

下原村
しもはらむら

[現在地名]谷田部町下原

赤塚あかつか村の東に所在。江戸時代には旗本由良氏の知行地となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には由良信濃守の知行地で村高二一八・八三石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報