日本歴史地名大系 「安塚村」の解説
安塚村
やすづかむら
慶安郷帳には宇都宮藩領とあり、田三〇〇石余・畑一九六石余。寛文四年(一六六四)の同藩領知目録にも村名が記載される。貞享二年(一六八五)の村明細帳(大久保和文書)によれば、承応三年(一六五四)同藩の検地があり、高七五四石余のうち田三九二石余・畑三六一石余、反別一四〇町五反余のうち田四九町六反余・畑九〇町九反余。また寛文一一年より延宝六年(一六七八)までに新田開発があり、田七石余・三町二反余、畑八四石余・三九町余となっている。小物成として柴山運上・野銭・伝馬銭・夫丸金・茶銭・漆銭などがあった。元禄一一年(一六九八)には旗本宮城・横山・天野の三給となり(「川除普請出入裁許覚」同文書)、元禄郷帳でも同様。寛保二年(一七四二)宮城分が幕府領となり、幕府領一六〇石余・天野領三〇五石余・横山領四〇六石余(寛保三年「川除普請積帳」大久保重義文書)。宝暦七年(一七五七)には旗本宮城・横山・天野の三給(「助郷役出入訴状」大久保和文書)。
安塚村
やすづかむら
安塚村
やすづかむら
安塚村
やすづかむら
安塚村
やすづかむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報