牧野村(読み)まぎのむら

日本歴史地名大系 「牧野村」の解説

牧野村
まぎのむら

[現在地名]藤野町牧野

相模川上流域と道志どうし川中流域に挟まれ、名倉なぐら村・日連ひづれ村の南にあり、東は石老せきろう山を挟んで寸沢嵐すあらし(現相模湖町)、南は青根あおね村・青野原あおのはら(現津久井町)、西は甲州秋山あきやま村・道志村(現山梨県南都留郡)に接する。村内には牧馬まきめ馬本まもと伏馬田ふすまだ奥牧野おくまぎの馬込まごめ馬淵まぶちなどの馬のつく小字名が多く、また綱子つなご中尾なかお吉原きつぱら篠原しのばらなど牧場に関する地名と思われるものが多い。伝説に牧野より「池月」を産し、牧馬の隣新戸しんど(現相模湖町寸沢嵐の小字)からは「磨墨」の名馬を産したとある。こうしたことから、牧野は古代の放牧地ではなかったかと考えられる(津久井郡勢誌)

年未詳四月二一日将軍足利義詮書状(県史三)に、亡父尊氏が鎌倉極楽ごくらく寺に舎利会料所として「相模国毛利庄、奥三保内若柳・日連・牧野等」を寄進したことがみえる。小田原衆所領役帳には「牧野之村 四拾六貫文 井上主計助、此一ケ所当代大和守為合力出置之」とある。

近世は初め幕府直轄領、寛文四年(一六六四)久世(のち下総関宿藩)領、貞享元年(一六八四)幕府直轄領、文政一一年(一八二八)小田原藩領。この間、元和二年(一六一六)青根村を分立させた(同年「牧野村新畑改帳写」・正保二年「津久井領郷村水帳請取帳写」小川文書)。元禄年間津久井領諸色覚書(県史六)によれば田四町一反余、畑二五五町七反余、新田畑五町九反余、かや畠一一町七反余。


牧野村
まきのむら

[現在地名]マキノ町牧野

白谷しらたに村の南西にあり、北西は粟柄あわがら(赤坂街道)で若狭国境へ続く。村名は往古村民が牧畜を業としたためという(高島郡誌)。文安三年(一四四六)八月一〇日の旦那願文(熊野那智大社文書)によれば、高島北郡の「しゝたに住人」のうちに「まきの妙祐」がいた。享徳(一四五二―五五)頃と思われる旦那在所注文(熊野那智大社文書)に「まきの」とある。高野山浅井家過去帳(高野山持明院蔵)によれば、永禄八年(一五六五)没の源朝法師は「江州北マケノ中之坊斎也」とある。南牧野・北牧野・西牧野の三集落に分れ、北牧野を北出きたで、西牧野を山出やまでとも称するので、南牧野が本郷であろう(高島郡誌)。慶長五年(一六〇〇)佐久間安政(元和二年以降信濃飯山藩)領、寛永一五年(一六三八)幕府領、慶安四年(一六五一)徳川綱重(寛文元年以降甲斐甲府藩)領となる。


牧野村
まぎのむら

[現在地名]茂木町牧野

那珂川の左岸に位置し、対岸河井かわい村との渡船があった。村は平組・寺山組・大藤組に分れる(芳香誌料)。文和二年(一三五三)六月一〇日の二通の明阿茂木知貞譲状写(茂木文書)によると、庶子知久に譲られた地に「小井戸・牧野 ・馬籠同野内」があり、馬籠まごめは小字に残る。

近世はおおむね常陸谷田部藩領。枝村として入郷いりごう村があるが、独立村として扱われることが多い。慶安郷帳では田方一七六石余・畑方四二三石余。万治三年(一六六〇)の高六二六石余(「領内検地覚」山納武雄文書)。安永五年(一七七六)の日光社参の際には日光街道鉢石はついし宿(現日光市)に人馬を出し(尊徳全集二三)、天保一二年(一八四一)より一〇ヵ年は奥州街道佐久山さくやま宿(現大田原市)の代助郷を勤め、勤高一〇〇石(嘉永三年「村高家数人別書上帳」小林実文書)


牧野村
まきのむら

[現在地名]佐原市牧野

下総台地北部に位置し、北は佐原村。集落は丘陵地に形成され、水田はおもに南方の香西かさい川、北方の小野おの川の谷に広がる。中世は大戸おおと庄に属した。観応元年(一三五〇)一〇月一七日の伴氏教寄進状(観福寺文書)によると、「下総国大戸庄牧野村坪河崎大」を観音堂(観福寺の母体か)に寄進し、大輔阿闍梨西吽に宛行っていることが知られ、中世を通じて牧野村に所在する観福かんぷく寺および地蔵堂・鎮守天神・辻坊を対象とした寺領寄進が行われている(同文書)


牧野村
まきのむら

[現在地名]安塚町牧野

北流する小黒おぐろ川の左岸段丘上にあり、川は山裾を取巻くように流れる。北は板尾いたお村、南に石橋いしばし村、西は牧野峠越に横住よこずみ(現浦川原村)、東は小黒川を挟んで安塚村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所此外四方分まきの村 中」とあり本納一九石四斗五升一合・縄高二八石三斗二升五合、家三軒・一〇人。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高九七石一斗余。


牧野村
まきのむら

[現在地名]美濃加茂市牧野、加茂郡八百津町やおつちよう上牧野かみまきの

小山こやま村の東、木曾川北岸にあり、対岸は可児かにしん(現可児市)慶長郷帳によれば旗本稲葉右近知行所二二四石余、幕府領四六四石余、牧ノ巣村山年貢五石余がある。正保郷帳によれば全村尾張藩領で、田方三〇八石余・畑方三六六石余・山年貢三石余。ほかに幕府支配の小物成米三斗がある。明暦覚書によれば、元和元年(一六一五)高四六四石余(山年貢三石余を含む)が尾張藩領へ編入され、概高はわずか一八八石余。慶安四年(一六五一)の男女一四一、馬一五。ただし「濃州徇行記」はこれを上・下牧野村分としている。


牧野村
まきのむら

[現在地名]姫路市山田町牧野やまだちようまきの

仁色にしき村の東に位置し、西に傾斜する平田ひらた川の扇状地と谷底平野に立地する。集落は山麓に細長く連なる。中世は蔭山かげやま庄に含まれた。明応四年(一四九五)一二月一日の播磨国守護赤松氏奉行人書下案(九条家文書)の袖書に「但牧野分催促事也」とみえ、守護の段銭奉行から段銭催促の使いが派遣されている。翌五年正月日の蔭山庄内多田村等年貢算用状(同文書)に「多田村・同(牧)野・福永名三个所御年貢算用事」とあり、当地が多田ただ村の内で福永名とともに年貢賦課の独立した一単位であったことがわかる。


牧野村
まぎのむら

[現在地名]上山市牧野

川と生居なまい川の間に開けた牧野原にあり、縄文中期の牧野遺跡がある。中世には如来によらい(現在は地名のみ残る)を中心に仏教文化が栄えたらしく、鎌倉時代の文保二年(一三一八)から嘉暦三年(一三二八)に至る一一年間の板碑六基が残る。追分板碑と天神板碑は文保二年、如来寺跡の大日板碑は元亨三年(一三二三)、阿弥陀三尊板碑は嘉暦二年、久昌きゆうしよう寺板碑は嘉暦三年の紀年銘がある。下原しもばらの元亨四年の不動板碑は十日とおか町に移された。室町時代のものに文明一一年(一四七九)と永禄四年(一五六一)の中原板碑、明応九年(一五〇〇)の如来寺板碑と六面石幢が残る。中世には上山より楢下ならげに通ずる道路は牧野街道で、寛永二年(一六二五)本庄ほんじようへの道が開発されると、駅路として栄えていた牧野街道は衰えた。


牧野村
まきのむら

[現在地名]豊川市牧野町

谷川やがわ村の南。文明―明応(一四六九―一五〇一)にかけて東三河地方に勢力を有した牧野氏の本拠。「三河国二葉松」に牧野村古屋敷として、牧野左衛門成時(古白)の居住を伝える。牧野氏は「牛久保密談記」によると、応永年中(一三九四―一四二八)に成富のとき讃岐から宝飯ほい中条ちゆうじよう郷牧野村へ移住して牧野を称し、牛久保うしくぼの一色氏に仕えたというが、出自ならびに移住の時期については不明な点が多い。明応二年、成時は波多野全慶を滅ぼして牛久保の一色いつしき城主となり、永正二年(一五〇五)今川氏の命により今橋いまはし(現豊橋市)を築いた。

慶長一五年(一六一〇)新城藩領となり、正保二年(一六四五)幕府領、天和元年(一六八一)鳥羽藩領、享保一〇年(一七二五)再び幕府領、同一七年旗本巨勢氏の知行所となって明治に至る。


牧野村
まきのむら

[現在地名]芝山町牧野

高田たかだ村の北西に立地する谷津村落。同村の切添新田で、元禄郷帳では高田村枝郷と肩書されて村名がみえ、高一四五石余。寛政五年(一七九三)の高一四五石余、家数二一、旗本大河内領(上総国村高帳)。幕末まで高・領主とも変わらず(旧高旧領取調帳など)。明治三年(一八七〇)の明細帳(飯高家文書)によると、延宝二年(一六七四)の検地で上田三町二反余(石盛八)・中田五町九反余(同七)・下田九町余(同六)、中畑一町八反余(同五)・下畑三町三反余(同三)、屋敷四反余(同一〇)が打出され、高一四五石余となった。


牧野村
まきのむら

[現在地名]春野町牧野

筏戸大上いかんどおおかみ村の南東、熊切くまきり川が渓谷を縫って西流する上流域左岸の山腹にある。永禄九年(一五六六)一二月、当地の牛頭天王(現八坂神社)が再興された際の木札(八坂神社蔵)の銘に「巻木村」とみえ、大旦那尾上新左衛門尉の名などがある。同一二年閏五月二〇日の徳川家康判物写(掛川誌稿)では、尾上彦十郎(正長)に宛行われた「犬居之内給分方本知」のうちに「熊切之内牧野」が含まれていた。江戸初期から幕府領。享保郷村高帳では掛川藩預所。その後幕府代官支配に復した(「春野町史」など)。正保郷帳では永三貫三三文、うち阿弥陀領三三文。雑木柴山ありと注記される。寛文一三年(一六七三)の検地帳(牧野自治会蔵)によれば水田は一畝余、畑方二町六反余のうち茶畑が約四割六分と面積比率が非常に高い。


牧野村
まぎのむら

[現在地名]大越町牧野

上大越村の西、高柴たかしば(八八四・四メートル)の北東山麓に立地し、同山を源流とする牧野川が南東に大きく迂回して栗出くりで村へ注ぐ。中央を三春みはる城下(現三春町)から磐城へ至る磐城街道が通る。中世は田村庄のうち。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「六段 六百文 まきの」とみえる。天正一四年(一五八六)・同一八年にも牧野から紀州熊野新宮に年貢を納めている(同年一〇月九日「熊野新宮領差出帳」片倉文書など)。正保二年(一六四五)までに大越村が分立して成立。


牧野村
まきのむら

[現在地名]津島市牧野町

青塚あおつか村の東南にある小村。東は北苅きたがり(現海部郡美和町)、南と西は寺野てらの村に接している。織田信雄分限帳に「一、八拾五貫文 まきの郷 山川千」とあるのが文献上の初見。天保の村絵図によると東村境に境内一〇歩村除の乳母神、西村境に社内九畝歩余村除の鎮守社牛頭天王社、村域のほぼ中央に三昧が記されている。

清須きよす代官所支配下で高二〇五石余のうち一四六石余が藩士四人の給知。田は五町四反五畝余、畑は八町三畝余で海東かいとう郡下では珍しく畑がちの村。


牧野村
まきのむら

[現在地名]矢部町牧野

北は南田みなみだ村・千滝せんだき村、西は白小野しらおの村に接し、千滝川の西岸に集落と田畑が広がる。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「まきの」とあり、貫高は一七貫。慶長八年(一六〇三)牧野村の二六〇石三斗二升が長尾安右衛門に宛行われている(同年一二月九日「加藤清正黒印状」弥富文書)。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属し、「国誌」に小村として谷山村・石ノ上(石神)村・揚(拘)村・小向村をあげ、ほかに「肥集録」は芝原を記す。


牧野村
まきのむら

[現在地名]社町牧野

加古川左岸の丘陵地に位置し、東は上三草かみみくさ村、北は枝村の吉馬よしま村。保延六年(一一四〇)源三位頼政が当地を領し、広大な原野を牧としたという伝説がある(加東郡誌)。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)に「三クサ□」の「西ハマキノ上ノ中山」とあり、当地は三草の西にあった。慶長国絵図に村名がみえる。


牧野村
まきのむら

[現在地名]大山町牧野

熊野くまの川支流くろ川の左岸の段丘斜面にあり、南と東は日尾ひお村、北と西は福沢ふくさわ村。正保郷帳の高二一六石余、田方一一町六反余・畑方二町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二三五石、免四ツ八歩、小物成は山役一四六匁・鮎川役二匁(三箇国高物成帳)


牧野村
まきのむら

[現在地名]泉南市信達牧野しんだちまきの

なか村の北東に位置する平地部の村。村の北部を紀州街道(熊野街道)が北東から南西に向けて通り、集落は街道沿いに集中する。この街道沿いの集落は中世の信達宿の一部に比定されている。文明一四年(一四八二)三月一二日のマキノ金大夫売券(中家文書)に「日根郡大伝法院御領信達庄之内、本庄マキノ村」とみえる。慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図に「槙野村」とみえ、高八二九石余。


牧野村
まきのむら

[現在地名]中村区牧野町

城下町続きの広井ひろい村の西にある。やなぎ街道が東西に通り、西端を笈瀬おいせ川が北に流れる。柳街道と笈瀬川の交わる所に集落が開け、街道沿いに少し離れて集落をつくる。寛文一一年(一六七一)の家数二五、人数一五一(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田二八町五反八畝余・畑四町七反二畝余。概高五六七石余はすべて藩士九人の給知。


牧野村
まきのむら

[現在地名]塩尻市大字宗賀 牧野

奈良井ならい川の段丘上にあって国道一九号・中央西線に沿った集落である。文献上の初出は天正一一年(一五八三)二月二四日木曾義昌が木曾の原平左衛門に「牧野西光寺之内千疋」の地をあてた宛行状(徳川林政史研究所蔵)である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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