安来庄(読み)やすぎのしよう

日本歴史地名大系 「安来庄」の解説

安来庄
やすぎのしよう

現安来町の伯太はくた川流域にあった京都賀茂御祖かもみおや(下鴨社)領庄園。もと安来郷と称する国衙領で、屋杉・矢杉・八杉・安木などとも記した。なお古代の安来郷は「出雲国風土記」では意宇おう郡、「和名抄」では能義のぎ郡所属。

貞応元年(一二二二)七月八日の将軍頼経下知状(小野家文書)に「安来庄」とみえ、勲功の賞として松田九郎有忠に当庄地頭職を与え、得分以下は兵衛尉資明の例に従うよう指示している。ただしこれよりさき「吾妻鏡」文治元年(一一八五)一月二二日条に、「以出雲国安東郷、先日令寄付鴨社神領給訖、而可為冬季御神楽料所之旨被仰遣、広元施行之」とある。下鴨社領のなかに「出雲国安東郷」は存在しないので、これは「安来郷」の誤記とみられ、安来庄は文治元年に源頼朝の寄進によって成立したことが知られる。頼朝によるこうした寄進は平家没官領を対象とするのが一般的であったところからすると、それ以前の国衙領時代の安来郷は平家方の武士によって領有されていたのであろう。貞応元年の下知状にみえる兵衛尉資明は、文治元年以後の安来庄成立期の地頭で、資明が承久の乱で京方(後鳥羽上皇方)について没落したのに伴い、改めて相模国の御家人であった松田氏が地頭職に補任されたのであった。この後、まもなく松田氏は当庄に移住してきたようで、応仁文明の乱に際して尼子清貞に所領を奪われるまで、当庄に拠点を置く有力な国人領主として出雲国の内外に大きな勢力を誇った。

文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳には第一五番に「安来庄九十丁松田九郎子息」「同庄内廿丁同人」とみえ、公田数は一一〇町であった。松田九郎子息とは、松田有忠の子有基のことで、有忠から有基への家督相続は寛元四年(一二四六)に行われ、幕府も翌宝治元年(一二四七)五月六日にこれを承認している(「将軍頼嗣袖判下文」小野家文書)。有基は建治二年(一二七六)に子息保秀に地頭職を譲渡し、幕府も弘安六年(一二八三)一月二二日付でこれを承認した(「鎌倉将軍家政所下文」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報