日本大百科全書(ニッポニカ) 「京極持清」の意味・わかりやすい解説
京極持清
きょうごくもちきよ
(1407―1470)
室町時代の守護大名。近江(おうみ)・出雲(いずも)・隠岐(おき)・飛騨(ひだ)の守護であり侍所所司(さむらいどころしょし)であった。高光(たかみつ)の三男。将軍義持(よしもち)の諱(いみな)をもらう。京極氏は叔父の高数(たかかず)が継いでいたが、嘉吉(かきつ)の乱(1441)で将軍義教(よしのり)とともに殺されたので、兄持高(もちたか)(持光(もちみつ))の養子となっていた持清が後を継いだ。これより先、永享(えいきょう)の乱(1439)に高数の名代として出陣しており、嘉吉の乱では赤松氏を追討した。家督を得て侍所所司となったが、一時辞したのち、1449年(宝徳1)から17年の長期間その任にあった。応仁(おうにん)の乱(1467~77)では東軍の細川方に属して戦い、また六角(ろっかく)氏と佐々木惣領(そうりょう)職・近江守護職を争った。64年(寛正5)に家督を長子勝秀(かつひで)に譲ったが若死にされ、持清の死後、京極氏は混乱した。文明(ぶんめい)2年8月4日没。法号は宝生寺月林生観。
[宮島敬一]