朝日日本歴史人物事典 「京極持清」の解説
京極持清
生年:応永14(1407)
室町時代の武将。法名は生観。高光の3男。父高光が応永20(1413)年8月に死去すると,家督は長兄の持高(持光)に譲られたが,幼少であったため叔父高数が後見役となった。しかし永享11(1439)年1月に持高が病死すると,持高には嫡子がなかったため,高数,次いで持清が家督を継ぐこととなった。嘉吉1(1441)年12月のことである。持清はすでに永享10年の足利持氏追討軍の一員として出陣するなど,その軍事行動がみられるが,家督を継ぐや近江,出雲,飛騨の各国守護として,ますます頭角を現すようになった。嘉吉1年には山名持豊に代わって侍所頭人に就任,在位期間は,嘉吉1年~文安4(1447)年,宝徳1(1449)年~文正1(1466)年におよび,この間,所司代に重臣多賀高忠を任命している。応仁の乱が始まると持清は東軍(細川勝元方)に属し,嫡流の六角高頼は西軍(山名持豊方)に属して佐々木一族は二分されたが,持清は高頼の従兄政尭と結び,近江における西軍勢力の弱体化を図り,京極家の勢力拡大に奔走した。京極家において導誉以来の傑物といえる。大乱当初,近江国内は東軍優位で推移したが,持清が死去すると状況は一変し,京極家の内部でも混乱を極めるに至った。
(宇野日出生)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報