日本歴史地名大系 「安渡湊」の解説
安渡湊
あんどみなと
正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に「安渡湊 此所岸深ニテ舟掛自由 此所より九艘泊迄海上道規十六里、此所より津軽之内外浜迄海上道規廿七里、此所より松前城前迄海上道規三十一里」とみえる。「郷村古実見聞記」ならびに「内史略」では同二年の絵図に大平湊が書上げられたとするが、当湊はみえず、「内史略」に「元禄御絵図には安渡湊」と注記される。寛文五年(一六六五)六月一五―二六日に松前船七艘、同六年には六月頃までに松前船一五艘、同八年には四月頃までに「田名部浦之内安渡、川内、脇之沢」へ上方船五六艘、「安渡、河内」へ松前船六艘、同一二年六月一一―二五日に「安渡浦」へ船一三艘が入港した(雑書)。明和七年(一七七〇)の「日本汐路之記」や文化元年(一八〇四)の陸奥国郡村仮名付帳(岩手県盛岡市中央公民館蔵)に湊とみえるが、「原始謾筆風土年表」の文政元年(一八一八)の項では安渡が湊、大平が浦とされており、藩政後期になると海運の中心は大平湊からしだいに当湊へと移っていった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報