五十鈴川河口左岸、宮川支流(大湊川)に臨む。周辺は古くから
大湊は一二世紀頃から各地にあった御厨・御園からの貢租などを調進する伊勢神宮の外港として、さらに神宮奉仕者および住民らの生活物資の取扱い港として栄えた。後堀河天皇から貞応二年(一二二三)に綸旨と三七ヵ条の廻船式目を与えられたという(「大湊由緒書」大湊文書)。南北朝期には吉野と東国を結ぶ中継港として、また熊野および志摩水軍に対する押えとして重要であった。暦応元年(一三三八)には義良親王・北畠親房・結城宗広らが奥州へ向けて当地を出帆した。「太平記」(巻二〇)には「此勢皆伊勢ノ大湊ニ集テ、船ヲソロヘ風ヲ待ケルニ、九月十二日ノ宵ヨリ、風ヤミ雲収テ、海上殊ニ静リタリケレバ、舟人纜ヲトイテ、万里ノ雲ニ帆ヲ飛ス」と記されている。
「内宮子良舘記」に「今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余、人五千人計流死」と記され、明応七年(一四九八)地震・高潮によって大きな被害を受けた。やがて復興し、「宗長手記」に「野間といふ所義朝の廟あり。ここより伊勢大湊へわたり、山田につき侍り。則参宮す」とあるように、連歌師宗長は大永二年(一五二二)
「大湊老若」の花押印がある永禄八年(一五六五)船々聚銭帳(大湊文書)と「大湊公界」の花押印を有する天正二年(一五七四)の船之取日記(同文書)によれば、当時大湊が伊勢・志摩の各地はもとより、尾張の各港とつながりがあったことがわかる。知多郡
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伊勢国(三重県)度会(わたらい)郡の港。伊勢湾に注ぐ宮川の河口港である。鎌倉初期に約200余,末期に約2000余の伊勢神宮領が東海道を中心に全国に散在し,貢進される神饌米・御贄は船で大湊に集められ,ここから川路で神宮に運ばれた。神宮の外港的地位が発展の基礎条件となり,宇治・山田両郷の都市的発展にともない繁栄した。1338年(延元3・暦応1)義良親王と北畠親房が奥州下向のためここから多数の兵船で出航したことは,有数の港であったことを物語っている。1498年(明応7)大地震による高潮で家1000軒余が流れ5000人が流死したといわれ,都市的発展を示している。1509年(永正6)愛洲氏が大湊を討伐しようとしたとき,神宮神主・宇治六郷・山田三方があっせんにあたり,大湊は1万匹の礼金を出して難を逃れた。北畠氏に対しても年始歳暮の祝儀,軍役参陣免除の佗言礼銭,戦費の進上調達で介入を防ぎ,富力で自治をあがなった。数少ない中世自治都市の一つである。財源の主なものは入港船1艘別100文の入港税で,坂東船は出入港ともに徴収し100文以上の船もある。65年(永禄8)11月9日から12月10日までの間に入港船数113艘,銭34貫870文に及ぶ。大湊公界(くがい)と称し自治都市であることを顕示し,老若(ろうにやく)(老分・若衆)の合議組織で24名の会合(えごう)衆があり,入港税徴収は1組3名が日々交代で番にあたった。近郷と〈浜七郷〉の惣を形成していた。74年(天正2)ころには問・宿・小宿が約80軒ある。織田信長の南伊勢侵略は1569年からはじまるが,73年の信長による長島一揆攻撃のときの出船命令にも自治都市桑名と連携して陰に陽に抵抗を示した。それ以後も後北条・今川氏との関係をつづけ,海上自由通行権や自由営業権を貫こうとしたが,織田政権の力の前に屈していった。信長や九鬼嘉隆らもここで軍船を建造させている。近世にはいり近隣の鳥羽が商港として台頭したため,その繁栄を奪われた。1943年宇治山田市(現,伊勢市)に編入。現在は河口の土砂の堆積で港としての生命はなくなり,ヨットの建造地となっている。
執筆者:小島 広次
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三重県中東部、伊勢市(いせし)の一地区。旧大湊町。伊勢湾に注ぐ宮川の河口に位置し、伊勢神宮の外港として栄えた。全国の大神宮領からの神饌(しんせん)米、神供(じんく)は船で大湊に集められ、神宮に運ばれた。江戸時代、「伊勢参り」の人々はここから神宮まで約6キロメートルの道のりを歩いた。また天然の良港で沿岸漁民の避難港に利用された。造船業も行われ、1338年(延元3・暦応1)北畠親房(きたばたけちかふさ)は奥州下向の際、大湊で50余隻の大船を調達した。また豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮出兵のときも、地元の九鬼嘉隆(くきよしたか)がここで軍船を建造した。江戸幕府もしばしば大船をつくらせている。白瀬中尉が南極探検に用いた開南(かいなん)丸もここで建造された。近代以降は大型漁船、中小貨物船を建造し、輸出も多く、伊勢市の財政源でもあったが、近年は全国的な造船不況の影響を受けている。現在は、アサリ、バカガイなどの採貝が行われている。
[伊藤達雄]
青森県北東部、むつ市の中心地区。旧大湊町。大湊港は古くは安渡(あんど)と大平の二つの港に分かれていた。江戸時代には木材積出し港であり、1905年(明治38)海軍要港部が置かれ、1941年(昭和16)警備府に昇格した。
[横山 弘]
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…青森県北東部,下北半島の頸部に位置する市。1959年田名部(たなぶ)町と大湊町が合体して市制を施行,大湊田名部市と称したが,翌60年現名に改称。人口4万8883(1995)。…
…江戸時代〈江戸に多きものは伊勢屋,稲荷に犬の糞〉といわれるほど伊勢出身の商人が多く,その商業活動が目覚ましかったが,それは中世における伊勢商人の台頭や活躍と無関係ではなかった。中世の伊勢には東国に多数分布する伊勢大神宮領から送進される年貢物の集散や陸揚げを行う大湊など港津が発達し,また畿内と東国を結節する地理的条件に恵まれたため桑名のような自治都市の成立もみられ,多くの廻船業者,問屋が輩出した。安濃津(あのつ)(現,津市)も大神宮領からの年貢物の取扱い,さらには海外貿易港として発展し,山田の三日市・八日市には多数の市座商人や土倉がたむろし,活躍していた。…
…伊勢においても守護すなわち幕府側の勢力範囲は主として北部に限られ,雲出(くもず)川以南の一志,飯高,飯野,多気,度会各郡の南伊勢は南朝方の北畠氏によって掌握されていた。北畠氏が南伊勢に進出したのは当時大湊(おおみなと)が軍事上とくに重要であったことと関連すると思われる。伊勢の港湾としては桑名,長太(ながほ),若松,安濃津,大湊などがあげられるが,伊勢神宮への崇敬が高まるとともにその供祭物の積入港である大湊がとくに発展した。…
※「大湊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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