大湊(読み)オオミナト

デジタル大辞泉 「大湊」の意味・読み・例文・類語

おおみなと〔おほみなと〕【大湊】

青森県むつ市西部の地名。大湊港はもと旧日本海軍要港部のあった軍港。

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日本歴史地名大系 「大湊」の解説

大湊
おおみなと

[現在地名]伊勢市大湊町

五十鈴川河口左岸、宮川支流(大湊川)に臨む。周辺は古くから大塩屋おおじおや御園が成立し、塩の生産地であった。宮川と五十鈴川が流出する土砂と伊勢湾流によって遠浅のデルタが形成されたため、製塩に適していた。年未詳だが平安末期と考えられる祭主使等散状案写(光明寺古文書)に大湊の地名がみえる。内外宮の両権禰宜が訴えた元久元年(一二〇四)の文書(神宮雑書)に「言上前大和守大中臣朝臣宜長訴申 当国度会郡空閑塩屋江葦原地弐処 今年儀対捍所当物間子細状(中略)抑度会郡大湊平潟浜并宮河流令字小勾埋地壱処」と記され、当地をめぐる係争がうかがわれる。

大湊は一二世紀頃から各地にあった御厨・御園からの貢租などを調進する伊勢神宮の外港として、さらに神宮奉仕者および住民らの生活物資の取扱い港として栄えた。後堀河天皇から貞応二年(一二二三)に綸旨と三七ヵ条の廻船式目を与えられたという(「大湊由緒書」大湊文書)。南北朝期には吉野と東国を結ぶ中継港として、また熊野および志摩水軍に対する押えとして重要であった。暦応元年(一三三八)には義良親王北畠親房・結城宗広らが奥州へ向けて当地を出帆した。「太平記(巻二〇)には「此勢皆伊勢ノ大湊ニ集テ、船ヲソロヘ風ヲ待ケルニ、九月十二日ノ宵ヨリ、風ヤミ雲収テ、海上殊ニ静リタリケレバ、舟人纜ヲトイテ、万里ノ雲ニ帆ヲ飛ス」と記されている。

「内宮子良舘記」に「今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余、人五千人計流死」と記され、明応七年(一四九八)地震・高潮によって大きな被害を受けた。やがて復興し、「宗長手記」に「野間といふ所義朝の廟あり。ここより伊勢大湊へわたり、山田につき侍り。則参宮す」とあるように、連歌師宗長は大永二年(一五二二)野間のま(現愛知県美浜町)から船で大湊へ渡っている。この頃、神宮への参詣者は船で当地へ着く者が多かったと考えられる。問丸も起こり廻船業者が活動した。大湊には大小一二〇艘の廻船があり、桑名屋・浜松屋・信濃屋・小浜屋・今一色屋など本拠地の地名を屋号にした問屋があった。

「大湊老若」の花押印がある永禄八年(一五六五)船々聚銭帳(大湊文書)と「大湊公界」の花押印を有する天正二年(一五七四)の船之取日記(同文書)によれば、当時大湊が伊勢・志摩の各地はもとより、尾張の各港とつながりがあったことがわかる。知多郡師崎もろざき篠島しのじま内海うつみ(現愛知県南知多町)小野浦おのうら・野間(現同美浜町)常滑とこなめ大野おおの(現常滑市)みや(現名古屋市熱田区)の船が出入りした。


おおつちみなと

大槌川の河口域、浜街道にかかる安渡あんど一帯にあった盛岡藩領の湊。正保国絵図に湊口広さ一三町、深所二丈、舟懸り自由、ただし東風のときは舟懸りが悪く、山田やまだ(現下閉伊郡山田町)まで海上道程七里の間、岩続きの荒磯とある。元和二年(一六一六)の浜田彦兵衛宛南部利直請取状(盛岡浜田文書)によると、大槌御蔵米のうち米四二駄片馬・大豆一二駄五升は江戸送り、一四駄六斗八升九合(金一一匁八分五厘)は波濡れなどによる損失分とあり、江戸時代初期すでに大槌湊から江戸台所米が輸送されていた。

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改訂新版 世界大百科事典 「大湊」の意味・わかりやすい解説

大湊 (おおみなと)

伊勢国(三重県)度会(わたらい)郡の港。伊勢湾に注ぐ宮川の河口港である。鎌倉初期に約200余,末期に約2000余の伊勢神宮領が東海道を中心に全国に散在し,貢進される神饌米・御贄は船で大湊に集められ,ここから川路で神宮に運ばれた。神宮の外港的地位が発展の基礎条件となり,宇治・山田両郷の都市的発展にともない繁栄した。1338年(延元3・暦応1)義良親王と北畠親房が奥州下向のためここから多数の兵船で出航したことは,有数の港であったことを物語っている。1498年(明応7)大地震による高潮で家1000軒余が流れ5000人が流死したといわれ,都市的発展を示している。1509年(永正6)愛洲氏が大湊を討伐しようとしたとき,神宮神主・宇治六郷・山田三方があっせんにあたり,大湊は1万匹の礼金を出して難を逃れた。北畠氏に対しても年始歳暮の祝儀,軍役参陣免除の佗言礼銭,戦費の進上調達で介入を防ぎ,富力で自治をあがなった。数少ない中世自治都市の一つである。財源の主なものは入港船1艘別100文の入港税で,坂東船は出入港ともに徴収し100文以上の船もある。65年(永禄8)11月9日から12月10日までの間に入港船数113艘,銭34貫870文に及ぶ。大湊公界(くがい)と称し自治都市であることを顕示し,老若(ろうにやく)(老分・若衆)の合議組織で24名の会合(えごう)衆があり,入港税徴収は1組3名が日々交代で番にあたった。近郷と〈浜七郷〉の惣を形成していた。74年(天正2)ころには問・宿・小宿が約80軒ある。織田信長の南伊勢侵略は1569年からはじまるが,73年の信長による長島一揆攻撃のときの出船命令にも自治都市桑名と連携して陰に陽に抵抗を示した。それ以後も後北条・今川氏との関係をつづけ,海上自由通行権や自由営業権を貫こうとしたが,織田政権の力の前に屈していった。信長や九鬼嘉隆らもここで軍船を建造させている。近世にはいり近隣の鳥羽が商港として台頭したため,その繁栄を奪われた。1943年宇治山田市(現,伊勢市)に編入。現在は河口の土砂の堆積で港としての生命はなくなり,ヨットの建造地となっている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大湊」の意味・わかりやすい解説

大湊
おおみなと

三重県中東部,伊勢市北部の旧町域。志摩半島北部に位置し,伊勢湾に臨む。 1889年町制施行。 1943年宇治山田市 (1955伊勢市に改称) に編入。伊勢湾最古の港町で,古くから伊勢神宮の外港として栄えた。造船業の町としても知られ,豊臣秀吉の征韓に際して兵船を調達し,技術者として同行したなどの記録が残る。角屋七郎次郎御朱印船もここに属し,海外貿易に従事した。近年造船業は衰退し,潮干狩りや釣りなどのレクリエーション拠点としてにぎわう。

大湊
おおみなと

青森県北東部,下北半島の基部に位置するむつ市の南東部,大湊湾に面する地域。第2次世界大戦前の 45年間,北洋を守る軍港として栄えたが,戦後はアメリカ軍,次いで海上自衛隊に使用されている。 1967年 11月には世界で4番目の原子力船むつ』号の母港となった。その後漁民の反対もあって,母港撤去となった。下北半島の観光拠点となっている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大湊」の解説

大湊
おおみなと

中世,伊勢国の港町。現在の三重県伊勢市にある
東海道沿岸航路の中心点で,伊勢神宮の外港的役割を果たす。南北朝時代,義良 (のりよし) 親王・北畠親房らの奥州下向の出発港として有名。戦国時代,北条早雲ら大名の軍用船建造地でもあった。

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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「大湊」の解説

おおみなと【大湊】

埼玉の日本酒。蔵元は「大湊酒造」。現在は廃業。蔵は羽生市上手子林にあった。

出典 講談社[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクションについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の大湊の言及

【伊勢商人】より

…江戸時代〈江戸に多きものは伊勢屋,稲荷に犬の糞〉といわれるほど伊勢出身の商人が多く,その商業活動が目覚ましかったが,それは中世における伊勢商人の台頭や活躍と無関係ではなかった。中世の伊勢には東国に多数分布する伊勢大神宮領から送進される年貢物の集散や陸揚げを行う大湊など港津が発達し,また畿内と東国を結節する地理的条件に恵まれたため桑名のような自治都市の成立もみられ,多くの廻船業者,問屋が輩出した。安濃津(あのつ)(現,津市)も大神宮領からの年貢物の取扱い,さらには海外貿易港として発展し,山田の三日市・八日市には多数の市座商人や土倉がたむろし,活躍していた。…

【伊勢国】より

…伊勢においても守護すなわち幕府側の勢力範囲は主として北部に限られ,雲出(くもず)川以南の一志,飯高,飯野,多気,度会各郡の南伊勢は南朝方の北畠氏によって掌握されていた。北畠氏が南伊勢に進出したのは当時大湊(おおみなと)が軍事上とくに重要であったことと関連すると思われる。伊勢の港湾としては桑名,長太(ながほ),若松,安濃津,大湊などがあげられるが,伊勢神宮への崇敬が高まるとともにその供祭物の積入港である大湊がとくに発展した。…

※「大湊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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