日本大百科全書(ニッポニカ) 「宝慶寺石仏」の意味・わかりやすい解説
宝慶寺石仏
ほうけいじせきぶつ
中国、唐の都長安の北東、光宅坊(こうたくぼう)光宅寺(677創建)にあった七宝台(しっぽうだい)(高層の楼閣)の内壁を荘厳(しょうごん)していた浮彫り石仏。元来は1120石余あったが、現在29石が知られている。光宅寺廃滅ののち西安(せいあん)城内の宝慶寺(別名花塔寺)の塔に移され、清(しん)の重修の際に塔や仏殿の壁にはめ込まれた。この像の刻銘は清朝の金石書目中にも散見されるが、その大部分は20世紀の初めに流出し、そのうちの19石が日本の細川家の蔵に帰した。則天武后の長安3、4年(703、704)の紀年のあるもの8石と、玄宗の開元12年(724)とみられるもの4石があり、後者は追刻とされる。ほとんどのものが長安年間の制作で、則天武后の発願により清禅寺主徳感の指導の下につくられた。坐像(ざぞう)、倚像(いぞう)の本尊仏と脇侍菩薩(きょうじぼさつ)からなる三尊像(22石)と十一面観音像(7石)がある。表情は明るく、体躯(たいく)は均斉がとれており、華麗な天蓋(てんがい)、台座、装身具などに盛唐期の仏像の特色が認められる。
[吉村 怜]