宮久保村(読み)みやくぼむら

日本歴史地名大系 「宮久保村」の解説

宮久保村
みやくぼむら

[現在地名]市川市宮久保一―六丁目・曾谷そや三丁目・東菅野ひがしすがの四―五丁目

貝塚かいづか村・曾谷村の南に位置し、南西は菅野村。集落国分こくぶん川左岸の台地上に形成された。宮窪とも記し、中世には八幡やわた庄内であったと考えられる。延文三年(一三五八)五月三日の日樹置文(弘法寺文書)によると弘法ぐぼう寺の毎月一三日・一五日の講会を「宮窪」などの僧俗が勤仕している。応永一七年(一四一〇)八月三日、中山法華経寺の子院浄光じようこう院の日経は「宮窪講演」職を日戴に譲っている(「日経譲状」浄光院文書)。永正一一年(一五一四)二月七日原胤隆は浄光院に宮窪村などの進退権を安堵している(「原胤隆安堵状」中山法華経寺文書)。また大永二年(一五二二)一一月の浄光院定書案(浄光院文書)によれば、同院は大野おおの郷惣導師職をもち、宮窪村などの弟子檀那の進退権も保持していた。


宮久保村
みやくぼむら

[現在地名]韮崎市穂坂町宮久保ほさかまちみやくぼ

三ッ沢みつざわ村の北、かやヶ岳南西麓を流下する権現沢ごんげんさわ(塩川支流)の段丘上に位置し、枝郷に宮久保新田・飯米場はんまいば鳥之小池とりのこいけ上之原うえのはら・権現沢がある。宮窪とも記し、地名は地内の高位段丘上字降宮ふるみやに鎮座する降宮大明神(現倭文神社)に由来するという。亥七月六日付の武田信玄印判状写(竜王村史)に「宮窪村」とみえ、永禄六年(一五六三)武田信玄は当村をはじめ三ッ沢村・上今井かみいまい村など九ヵ村に対して釜無川の川除普請を命じている。慶長古高帳では高一五六石余、幕府領。慶長七年(一六〇二)検地帳(県立図書館蔵)では宮窪村とあり、反別は麻畑三反余・上畑一町一反余・中畑五町九反余・下畑七町二反余・下々畑一〇町二反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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