宮司村
みやじむら
宮地岳山塊の南端にあたる宮地岳(一八二メートル)から南西に平坦部が展開し、西は玄界灘に面する。北西は津屋崎村。宮地とも記す。
正嘉元年(一二五七)三月五日、幕府は六波羅探題北条時茂に、大宮司宗像氏業から申状が提出された宗像社領三ヵ所などについては、道理に任せ裁許するよう本所に伝えることを命じている(「関東御教書案」宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文一一)。宗像社家文書惣目録(宗二)では、御教書が在自・宮地・鞍手三箇郷文書の項にあることから、この三ヵ所は在自・宮地、鞍手(所在地不詳)であったと考えられる。弘長元年(一二六一)七月二日預所橘知茂は大宮司宗像長氏に、社領宮地など三ヵ所について旧例と関東御教書の旨により和与去文を出している(「預所備中守橘知茂奉書写」宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文一二)。
宮司村
みやじむら
[現在地名]杵築市宮司
杵築城下の北方、清水寺口番所を出ると、低い台地と小山に点在する。北西の谷を挟んで竹ノ尾城跡があり、北および東は海であったが、高山川の土砂堆積と埋立により水田となった。慶長六年(一六〇一)の木付城付知行分目録(松井家文書)に村名がみえ、高一五二石余。小倉藩慶長人畜改帳では木付下庄に属し、家数一四・人数二五(うち本百姓五、若宮司・名子三)、牛六。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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