日本歴史地名大系 「宮地村」の解説
宮地村
みやじむら
阿蘇中央火口丘から北流する河川が形成した扇状地にあり、東は
建仁三年(一二〇三)一〇月一三日の北条時政裁許状(阿蘇家文書)に「四面八丁内田畠地元妨可停止事」とある。治承二年(一一七八)三月一三日の阿蘇社宮師僧長慶譲状案(同文書)で嫡子亀法師丸に譲った「居地薗并屋敷」の四至では、南は神人の草大夫屋敷、北は同じく供僧吉丸坊の屋敷と接している。徳治二年(一三〇七)八月日の阿蘇社長寿丸供僧免田屋敷坪付注文(同文書)には、田地は「一所 三反
正平一九年(一三六四)一二月日の阿蘇社領宮地四面内并郷々闕所注文(阿蘇家文書)では「きりこのもの三郎のあと」「かにさこの四郎入たうのあと」など七人の跡地と「はんさうの御せんのふん」が闕所として記されている。
宮地村
みやじむら
南北に広がる宮地台地と、南を流れる
宮地村
みやじむら
- 熊本県:八代市
- 宮地村
正和三年(一三一四)八代庄三ヶ村弥松一方の伊賀左衛門入道代沙弥光蓮は荘内太田郷「宮地白木社」供僧の宰相房弁秀が観妙寺免田五段を質券に入れ、利銭五貫文をとりながらその弁をしないことを訴えている(同年四月日「八代荘伊賀左衛門入道代光蓮申状」舛田文書)。明徳二年(一三九一)六月六日、八代に侵入した今川軍は「宮地原」で合戦ののち
宮地村
みやじむら
- 愛知県:岡崎市
- 宮地村
慶長九年の岡崎藩検地帳写(本多家文書)では「三州額田郡岡崎領宮地村検地帳」とあり、
宮地村
みやのじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやちむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
宮地村
みやじむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報