デジタル大辞泉
「倭文神社」の意味・読み・例文・類語
しずり‐じんじゃ〔しづり‐〕【倭文神社】
鳥取県東伯郡湯梨浜町にある神社。祭神は建葉槌命ほか六神。織物・安産の神。伯耆国一の宮。
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しずり‐じんじゃしづり‥【倭文神社】
- ( 「しどりじんじゃ」とも )
- [ 一 ] 鳥取県東伯郡湯梨浜(ゆりはま)町にある神社。旧国幣小社。祭神は建葉槌命(たけはづちのみこと)、下照姫命(したてるひめのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)ほか四柱。織物・安産の守護神として崇敬される。伯耆国一の宮。経塚出土品は国宝。
- [ 二 ] 鳥取県倉吉市志津にある神社。旧県社。祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)、武葉槌神、下照姫神ほか。伯耆国三の宮。
しとり‐じんじゃ【倭文神社】
- 鳥取県東伯郡湯梨浜(ゆりはま)町にある神社。旧国幣小社。祭神は建葉槌命(たけはつちのみこと)、下照姫命(したてるひめのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)など。伯耆国一の宮。しずりじんじゃ。
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倭文神社
しとりじんじや
[現在地名]東郷町宮内
御冠山西麓、宮坂に鎮座。旧県社。祭神は建葉槌命・下照姫命・事代主命・建御名方命・少彦名命・天稚彦命・味耜高彦根命。「延喜式」神名帳に記載される伯耆国河村郡の同名社に比定される。平安時代後期には伯耆国一宮とされ、江戸時代も一宮大明神などと称された。「文徳実録」斉衡三年(八五六)八月五日条に「倭文神」とみえ従五位上を叙されており、天慶三年(九四〇)九月四日には従三位から正三位に加叙されている(日本紀略)。承暦四年(一〇八〇)六月一〇日、倭文神などに中祓を修すべきことが奏聞されている(「神祇官奏」朝野群載)。ただし、久米郡にも同名の式内社(現倉吉市の倭文神社に比定される)があり、これらの神階記事などはどちらの神社か決めがたい。康和五年(一一〇三)一〇月三日、「伯耆国河村東郷御坐一宮大明神」神前において僧京尊により供養された如法経(法華経)が、当社の南東の山中に埋納されている(倭文神社経筒銘)。
倭文神社
しどりじんじや
[現在地名]舞鶴市字今田
池内川が平野に出る辺りの小字津ノ上に鎮座。祭神天羽槌雄命。ちなみに「旧事本紀」や「古語拾遺」に「倭文遠祖、天羽槌雄神ヲシテ文布ヲ織ラシム」とあり、「釈日本紀」に「倭ハ青筋ノ文布ヲ云フ」と記す。「延喜式」神名帳にみえる加佐郡「倭文神社」に比定される。旧村社。
社名をイブンと読みならわしているが、「志鳥大明神」(丹後旧事記)、「子鳥大明神」(丹哥府志)とも表記される。倭文の字訓は「シヅリ」が古く、これは「シツオリ」の略であり、この神の本貫は鳥取県の同名の神社、すなわち現東伯郡東郷町の倭文神社(伯耆一宮)や現倉吉市の倭文神社であるといわれる。
倭文神社
しどりじんじや
[現在地名]倉吉市志津
志津の宮ノ前にある。経津主命・建葉槌命・下照姫命などを祀り、旧県社。伯耆国三宮といわれ、近世には三宮大明神・志津大明神などとも称された(天明六年「由来書」社蔵など)。古代当地一帯に住した倭文織部が氏神として建葉槌命を祀ったのが草創と伝え、「延喜式」神名帳に記載される久米郡の「倭文神社」に比定される。斉衡三年(八五六)八月五日、伯耆国の倭文神が従五位上の神階を授けられている(文徳実録)。
倭文神社
しどりじんじや
[現在地名]伊勢崎市東上之宮町 明神東
大川と利根川に挟まれた沖積地にあり、利根川対岸の佐波郡玉村町には式内社の火雷神社が鎮座。「延喜式」神名帳の那波郡に倭文神社とあり、当社に比定される。祭神は天羽槌雄命。付近を「和名抄」那波郡の委文郷に比定する説があり、当社の創祀との関連が考えられる。また「しどり」は「しずおり」の約で平絹をさし、倭文部の民が移住して天羽槌雄命を祀ったとも考えられている。
倭文神社
しずりじんじや
[現在地名]韮崎市穂坂町宮久保 降宮
宮久保集落の北東方にある。天羽槌雄命・天棚機姫命の二神(「社記」では建御名方命・機織姫命の二神)を祀り、旧郷社。草創年代は不詳であるが、「延喜式」神名帳にみえる巨麻郡の「倭文神社」(内閣文庫本ではシトリ、九条家本ではシツノとよむ)に比定する説もある。近世には降宮大明神とよばれ、宮久保・三ッ沢・柳平三ヵ村の産土神で、「甲斐国志」には「古棟札ニ穂坂ノ総社倭文ノ神社降宮大明神トアリ」と記される。
倭文神社
しずりじんじや
西九条町の集落南西部に鎮座し、旧村社。武羽槌雄命・経津主命・誉田別命を祀る。「大和名所図会」に「此ほとりにあり。俗にひつりのやしろといふ」とみえ、社伝では中臣時風・秀行が勧請したという。倭文と称することについては未詳。昭和初年に火災に遭ったため記録が残らないが、北大和で祭の派手なのは櫟本(現奈良県天理市)の祭と西九条の祭といわれるほど祭礼は盛んであった。近年まで一〇月一六日の祭礼に先立って頭屋の家にお仮屋を造っていたが、現在では境内に仮社殿を造り、町内でこれを祀る。
倭文神社
しどりじんじや
[現在地名]野田川町字三河内 中坪
「延喜式」神名帳にみえる与謝郡「倭文神社」に比定される。「丹哥府志」には「石崎大明神」とあり、祭神天羽槌雄命。旧村社。
式内社倭文神社の所在地については、「丹後旧事記」「丹後一覧集」「丹後細見録」などに筒川村(現伊根町)とする説も載る。
倭文神社
しとりじんじや
[現在地名]鳥取市倭文
倭文集落に西接する山の中腹に鎮座。祭神は経津主命・武甕槌命。旧村社。「延喜式」神名帳に載る高草郡七座のうちの「倭文神社」に比定される。「和名抄」記載の高草郡倭文郷は倭文部にかかわるとみられ、当社も倭文部の祀る神であったと考えられる。江戸時代には七体大明神と称し、倭文村の産土神とされた(「因幡志」など)。もと山下にあったが、享保七年(一七二二)現在地に遷座。
倭文神社
しどりじんじや
[現在地名]生野町円山 下代
円山川沿いの円山集落の対岸にある。「延喜式」神名帳の朝来郡九座の一つ「倭文神社」に比定される。旧村社。祭神は天羽槌命。「日本書紀」神代下の条の訓注に倭文神を斯図梨俄未というとある。同じく天武天皇一三年(六八四)一二月二日条には倭文連の倭文に之頭於利の訓注があり、約してシトリとなる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
倭文神社
しどりじんじゃ
鳥取県東伯(とうはく)郡湯梨浜(ゆりはま)町宮内(みやうち)に鎮座。伯耆(ほうき)国一宮(いちのみや)。旧国幣小社。祭神は主神の建葉槌命(たけはつちのみこと)と相殿(あいどの)神下照姫命(したてるひめのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、天稚彦命(あめのわかひこのみこと)、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を祀(まつ)る。社名の「倭文」は「しずおり」の転訛(てんか)で、織物の名。古くこの地方で織物が発達していたため、冠せられたものと思われる(祭神の建葉槌命は倭文部(べ)の祖)。神階は856年(斉衡3)従(じゅ)五位上、940年(天慶3)正三位(さんみ)を授けられる。境内から出土した「康和(こうわ)五年」(1103)銘の銅経筒の願文によれば、平安後期には一宮として伯耆国の崇敬を集めていたようである。境内の経塚は国指定史跡(伯耆一宮経塚)。社宝は経塚出土品(国宝)で、前記の銅経筒のほか、奈良時代の制作と思われる金銅観音菩薩立像(ぼさつりゅうぞう)、銅板線刻弥勒(みろく)立像などを含む(東京国立博物館出陳)。例祭日5月1日。
[阪本是丸]
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倭文神社
しどりじんじゃ
鳥取県湯梨浜町東郷にある神社。「しずりじんじゃ」とも称す。祭神はタケハツチノミコトほか6柱。『延喜式』では国幣小社に列していた。 1915年に,僧京尊が康和5 (1103) 年につくった境内の経塚から同年の銘のある銅製経筒が発見され,それによると伯耆国一宮であることが記されており,平安後期には一宮とされていたことがわかる。以来,領主のあつい崇敬を受けた。経塚は史跡,出土品は経筒のほかに金銅観音立像,銅造千手観音立像,銅板線刻弥勒立像そのほか多数あり,一括して国宝。
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倭文神社【しとりじんじゃ】
鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内に鎮座。旧国幣小社。建葉槌(たけはづち)命などをまつる。延喜式内社とされ,伯耆(ほうき)国の一宮。例祭は5月1日。金銅観世音菩薩立像等の経塚出土品がある。安産の神として信仰される。
→関連項目東郷[町]
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倭文神社
(岩手県遠野市土淵町土渕18-174)
「遠野遺産」指定の地域遺産。
五日市館主・橘家の守護として、文殊菩薩を勧請したのが始まりとされる。「お文殊さま」と呼ばれ、例祭には学童たちが習字を奉納して筆写の上達を祈願している
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
倭文神社
鳥取県東伯郡湯梨浜町にある神社。「しずりじんじゃ」また「しとりじんじゃ」と読む。創祀は不明。祭神は建葉槌命(たけはづちのみこと)、下照姫命(したてるひめのみこと)など。伯耆国一之宮。安産の神として信仰を集める。名称は同地の主産業が倭文織(しずおり)と呼ばれる織物業であったことから。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典(旧版)内の倭文神社の言及
【一宮】より
…古代末期より中世初頭にかけてつけられたことに始まる社格の一種。《今昔物語集》に周防国の一宮玉祖大明神の名のみえるのが文献上の初見とされ,鳥取県の倭文(しどり)神社境内より出土の康和5年(1103)銘の経筒にも一宮の語がみられるが,およそそのころよりの呼称とみられる。それは,神祇官や国司が公式に定めつけたものではなく,民間でつけられたもので,それも諸国同時でなく,1165年(永万1)の〈神祇官諸社年貢注文〉よりも察せられるように,古代末期より中世初頭にかけ,逐次国ごとにつけられ,全国に及んだものとみられる。…
※「倭文神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」