日本歴史地名大系 「富津浦」の解説
富津浦
ふつつうら
富津の地先に広がる海で、江戸時代初期から漁業が行われた。史料上は富津浦・富津村浜などとみえ、立浦と称する漁業主体の浦で、江戸内湾の主要漁村の一つ。「慶長見聞集」に上総富津という浜辺の里に正右衛門(石綿正右衛門の祖という)なる漁翁がおり、江戸に魚売に来ていたとある。寛永九年(一六三二)の免状之事(富津漁業史、以下断りのない限り同書)に富津村とみえ、鰯網漁が行われていたことが知られる。不漁の鰯漁に対して房総一千三四〇張の網職に金一四万八千両の貸付けが幕府の保護策としてなされ、漁の妨げがあれば勘定奉行に訴え出ること、網職の立行きがたい者には両度まで世話すること、粕になる魚は海上何里でも国元に水揚げすること、諸魚とも私の売買を禁じることなどが定められており、当地尾張清重の署名がみえる。この鰯漁は他国漁師による旅網が主体と考えられ、貞享三年(一六八六)畿内近国の摂津・和泉・紀伊・伊勢や尾張・三河などの旅漁師と出入になっている。当浦は好漁場であったとみられ、元禄一五年(一七〇二)当時の入漁料は四艘張網一五張で年六〇両とされていた。こうした出稼漁は享保一二年(一七二七)の鰯漁八張を最後に跡を絶ったという(富津市史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報