大堀村(読み)おおほりむら

日本歴史地名大系 「大堀村」の解説

大堀村
おおほりむら

[現在地名]富津市大堀

青木あおき村の北に隣接し、小糸こいと川河口部に位置する。永禄二年(一五五九)の北条氏所領役帳に佐貫さぬき近所として大堀とあり、小田原衆の加藤大蔵丞が当所に御蔵出分二三貫四〇〇文を知行していたが、当時は年貢を徴収できない無所務の地でもあった。天正四年(一五七六)と推定される三月二八日の北条氏規朱印状(山本文書)に北条氏の半手所領として大堀とみえ、北条氏および敵対する里見氏が重視した湊津であった。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三〇九石。元禄郷帳でも同高であるが、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高三七五石余で、享和元年(一八〇一)当時は幕府領五石余・飯野藩領一〇石余・旗本安藤領一二五石余・黒川領一二八石余・大久保領一〇三石余・酒井領一〇三石余で、家数一五一(伊能忠敬測量日記)。文化八年(一八一一)当時篠部しのべ村・川名かわな村などの年貢米を江戸に回す場合は大堀浦から津出しした(森家文書)

大堀村
おおぼりむら

[現在地名]浪江町大堀

高瀬たかせ川北岸にあり、南の対岸は井手いで村、西は鷹の巣たかのす山を境に小丸おまる村。北西の板木いたぎ沢から流れ出る谷川が村域中央を南流する。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に「三貫三百五文 大ほり右馬亮」とみえる。正保郷帳では田方九石余・畑方三二石余。元禄郷帳では高四〇石余。寛永一六年(一六三九)の高六三石余、明暦二年(一六五六)の高四六石余(奥相志)

大堀村
おおほりむら

[現在地名]八日市場市大堀・大保里おおほり

東流する借当かりあて川を境に入山崎いりやまざき村の北に位置し、集落は台地上とその縁辺部の低地に形成される。承応二年(一六五三)名寄帳(大堀区有文書)に村名がみえ、高一九八石余。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二〇三石余で、旗本松平(のち多古藩)領。弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳でも多古藩領。旧高旧領取調帳では旗本岡部領一〇六石余・同丸毛領二二五石余の相給となっている。

大堀村
おおぼりむら

[現在地名]松原市大堀町など

東除ひがしよけ川が西部を北流し、村の北境を西流する大和川に注ぐ。地形はおおむね平坦で、南は一津屋ひとつや村。東除川左岸で寺院跡が発掘され、奈良時代のものと思われる軒丸瓦が出土した。年欠二月一六日の観心寺座主某御教書(観心寺文書)によると、「河内国大堀庄領家職」が法華堂料所として観心かんしん(現河内長野市)に寄進されている。

大堀村
おおほりむら

[現在地名]最上町大堀

若宮わかみや村の西に位置し、本郷は西流する最上小国もがみおぐに川の北岸、支流しら川の西岸に位置する。新田本村鑑は枝郷として森腰・前村・宮下・瀬見せみの四ヵ村をあげる。最上小国街道が東西に走り、村の西端、瀬見で亀割かめわり峠を越えて新庄城下に向かう別路(新庄街道ともよぶ)が分岐した。慶長一六年(一六一一)の小国光忠知行宛行状(佐藤文書)に「三百かり 大ほり」などとみえ、当地のうち合せて五〇〇刈の地が佐藤半七に与えられている。元和八年(一六二二)御前帳写では高二八一石余、寛文四年(一六六四)には高五一三石余、うち新田九石余(新田本村鑑)、明和三年(一七六六)には高七〇〇石余、うち田方六六一石余、反別七五町三反余、うち田方五〇町九反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数六二(うち借屋二)、人数三〇四、駄馬一二二、明治三年(一八七〇)の郷村高帳によると山運上銀三三匁余・諸職人運上銀二七匁を上納している。

大堀村
おおぼりむら

[現在地名]彦根市大堀町

地蔵じぞう村の南に位置し、中山道(古代の東山道、中世の東海道)が通る。当地の大堀山(別名鞍掛山、約一四五メートル)は、壬申の乱時の戦場鳥籠とこ山に比定され、麓を流れるせり(大堀川)は「万葉集」などに詠われた不知也いさや川とされる。東山道の駅家鳥籠駅の比定地でもある。天正一九年(一五九一)四月の御蔵入目録(林文書)に「大ほり村」とみえ、高八五〇石余が豊臣秀吉直轄領となった。

大堀村
おおぼりむら

[現在地名]西吉野村大字奥谷おくだに

奥谷村の北にある。古田ふるた郷のうち。江戸時代初期は奥谷村に含まれ、元禄三年(一六九〇)の新検高之帳(天理図書館蔵)に「奥谷村之内大堀村」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報