寝院北俣(読み)ねじめいんきたまた

日本歴史地名大系 「寝院北俣」の解説

寝院北俣
ねじめいんきたまた

平安時代後期から戦国期の地名禰寝院南北に分れ、禰寝院北俣と禰寝院南俣(現根占町)として成立した。禰寝北俣、あるいは単に禰寝院とも記され、大禰寝おおねじめ院とも称される。治暦五年(一〇六九)一月二九日の藤原頼光所領配分帳案(禰寝文書)に頼経宛の給分として「禰寝院内参村、大禰寝 浜田 大姶(良)」とみえ、禰寝院は禰寝院北俣をさしているが、浜田はまだ大姶良おおあいら(現鹿屋市)と区別されるこの場合の大禰寝は現大根占町に比定されるか。大隅国建久図田帳に島津庄寄郡として禰寝北俣四〇町五段四丈がみえる。藤原姓富山志々目氏系図(志々目文書)によれば、禰寝五郎太夫義光は寿永二年(一一八三)六月一日に北陸道篠原しのはら(現石川県加賀市)合戦で討死しているが、その子息が禰寝小太夫義明(仏念)で、その子が義宗(道意)となる。

文永四年(一二六七)三月五日の沙弥道意置文案(志々目文書)に「禰寝院村々置役事」とみえ、道意は院内恒例臨時の公事配分を田数三〇町とし、その内訳郡本こおりもと村八町五反(うち鳥浜三反・神河五反)、浜田村六町二反・横山よこやま村四町二反・大姶良村三町六反・志々女ししめ(現鹿屋市)七町五反と定めている。富山氏惣領の道意は禰寝院北俣の弁済使で、すでに志々女村は弟の義房(西意)が父義明から譲与されていたが(同八年七月一六日「島津庄留守沙弥某下文」同文書)、管理権は保持していたのである。近年、大根占町城元の天神下しろもとのてんじんしたの藪叢の中から文永四年八月銘をもつ笠石塔婆が発見され、天神下の笠塔婆として県の文化財に指定された。その銘文によると建立者は沙弥道意、まさに禰寝院置文を記した弁済使義宗その人で、所在地もその南西約一〇〇メートルの地にあったとみられる弁済使居薗に近接している。したがってこの付近を禰寝院北俣弁済使の領内経営の拠点とみてよかろう。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)によると、禰寝北俣四〇町五段四丈に四丈五寸八分の石築地役が課されている。

禰寝院北俣は道意から義篤(定仏)・隆義(仏日)・弥義(胤義)と相伝されたが(前掲志々目系図)、胤義の代になると禰寝院南俣の禰寝氏(建部氏)庶家の建部清政(角氏の祖)が経済力を背景に禰寝院北俣に進出してきた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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