明治三二年(一八九九)一〇月より大正一一年(一九二二)八月まで存続した行政区。ただし小樽市街の形成は近世末期からで、小樽市成立後も区制時代の市街地をもとに拡大していった。一八五六年(安政三年)和人女性のカムイ岬通行が解禁されるに伴いカツナイ川左岸を中心に町並が造られ,六五年(元治二年)幕府はヲタルナイ場所を廃して「村並み」とした(慶応元年六月「請証文」小樽市史など)。小樽略図(明治元年、「小樽区史」所載)ではカツナイ川両岸からヲタルナイ、さらにヲコバチ川右岸までが人家の密集地帯として描かれ、明治三年当時の「小樽内」は「西地第一繁華ノ地」であった(「北行日記」同年八月一二日条)。
明治二年七月、
明治一二年七月小樽高島忍路余市郡役所設置。同一三年同役所内に刑法局小樽出張所が置かれ、同一五年六月小樽治安裁判所が新設された。明治二年設置の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
…これらは大都市圏行政の多様化に対応するものであるが,大都市圏行政の総合性を阻害するとの批判もある。
[日本の区]
日本近代の地方制度に〈区〉なる行政区画が本格的に登場したのは,1872年(明治5)の〈大区・小区〉の制定による。これは全国的な政治支配を目的として明治政府が設けた最末端行政区画である。…
…1871年(明治4)4月に出された戸籍法が,戸籍事務遂行のため新しく区を設定し,戸籍吏として戸長・副戸長をおくことを命じたのが初めである。ついで翌年,戸長・副戸長と旧町村役人(名主・庄屋など)との間におこる権限の競合に対処するため,旧町村役人の廃止と区制による統一を命ずる布告が出され,大区・小区制は形をととのえた。大区・小区の規模や行政吏の名称は府知事・県令の裁量にゆだねられ,各府県で異なったが,数ヵ町村をあわせて小区をつくり,数ヵ小区をあわせて大区とし,大区に区長,小区に戸長をおくのが一般的であった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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