ロンドン(読み)ろんどん(その他表記)London

翻訳|London

デジタル大辞泉 「ロンドン」の意味・読み・例文・類語

ロンドン【London】[曲名]

ハイドンの交響曲第104番ニ長調の通称。1795年作曲。全4楽章。ロンドン交響曲の一。ハイドンが作曲した最後の交響曲であり、古典派交響曲の代表作として知られる。

ロンドン(Jack London)

[1876~1916]米国の小説家。野性をテーマに動物を主人公とした作品や、社会小説を書いた。作「荒野の呼び声」「白い牙」など。

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共同通信ニュース用語解説 「ロンドン」の解説

ロンドン

英国の首都で、首都圏人口は約850万人。中心部にはテムズ川が流れ、バッキンガム宮殿や大英博物館、国会議事堂の大時計(愛称ビッグベン)、ロンドン塔など多くの観光名所がある。金融街シティーはニューヨークの「ウォール街」と並ぶ世界の金融センター。2012年には3度目となる五輪が開催された。今年3月、国会議事堂周辺で男が車で通行人をはね、刃物で警官を襲撃するテロが発生、5人が死亡した。(共同)

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精選版 日本国語大辞典 「ロンドン」の意味・読み・例文・類語

ロンドン

  1. ( Jack London ジャック━ ) アメリカの小説家。環境の生物に与える不可抗力、野性と暴力の世界などを描いた。代表作「野性の呼び声」「白い牙」など。(一八七六‐一九一六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロンドン」の意味・わかりやすい解説

ロンドン(イギリス)
ろんどん
London

概説

イギリスの首都。イングランド南東部、テムズ川河口から約60キロメートル上流に位置する。このテムズ川のもっとも下流部の渡河地点という立地条件に加え、温暖な気候、大陸への近さなどの自然条件がロンドンを生み、現在の大都市としての発展を促した重要な要因となっている。

 イギリスの長年にわたる首都として、政治、経済、文化などのあらゆる活動が集中するだけでなく、イギリス連邦の中心として、また世界経済、とくに金融・保険業、海運業等の中枢として重要な役割を演じてきた。このため、ここで日夜営まれる各種活動に従事し生活する人々の数は膨大な量に達する。大ロンドンGreater London Authorityとよばれる市街地部分は、面積1580平方キロメートル、人口717万2036(2001)。これは全国人口の12%にあたり、東京、ニューヨークと並び世界の三大都市の一つに数えられている。市内には近年急速に高層ビルが増え、高速道路が中心部に乗り入れるなど、ロンドンの景観は変わりつつあるとはいえ、裏通りにはなお19世紀の雰囲気も残っている。植民地からの富で築き上げられた19世紀のロンドンは、一方ではフランスのナポレオン3世にパリ改造を決意させる直接のきっかけとなった壮麗さを誇るとともに、他方では「この世の地獄とはロンドンのような町のことだ」という詩人シェリーの嘆きが示すように、すでに過大化による大都市の弊害に悩まされ、そのいくつかを現代に持ち越すことになったのである。古さと新しさの調和・融合は現在のロンドンに大きな魅力を与えているが、反面、このような多くの性格を同時に抱え込むことで、他の大都市にはみられない複雑な問題の解決も迫られている。

[井内 昇]

市街

ロンドンとよばれる地域は単一ではなく、ロンドンの名をもつ地域には次の三つがある。

(1)もっとも内側の政治、経済、文化など、ロンドンを代表する活動が集まる都心地区はセントラル・ロンドンとよばれ、その核となるのがシティである。

(2)セントラル・ロンドンの外側にも連続市街地が広がるが、この両地域をあわせて大ロンドンGreater Londonとよぶ。現在、Greater London Authority(大ロンドン行政府、大ロンドン市。以下大ロンドンと略記)とよばれる行政区域はほぼこの範囲と一致している。大ロンドンには、シティ・オブ・ロンドン(これを通常シティとよび、中世以来の自治特権の一部が残されている)と、その周辺にシティ・オブ・ウェストミンスターなどのバラboroughとよばれる32の行政体がある。これら計33の行政体のうち、都心部に相当する14行政体をインナー(内部)・ロンドン、その外側を囲む19の行政体をアウター(外部)・ロンドンとよぶ。

(3)大ロンドンは周りを取り巻くグリーン・ベルトで外側の市町村と遮断されているが、ロンドンの通勤圏はグリーン・ベルトの外側にまで広がる。このため、通勤圏も含む中心市街地と一体となって活動する広い範囲は一般にロンドン大都市圏London Regionとよばれる。面積は1万0621平方キロメートルである。

 以下、セントラル・ロンドンとイースト・エンドについて、市街の概要を述べる。中心市街地の主要鉄道ターミナル駅を結んだ線の内側がセントラル・ロンドンで、経済の中心シティと、政治の中心ウェストミンスター地区およびロンドン第一の繁華街を含むウェスト・エンドからなる。

[井内 昇]

シティ

シティはロンドン発祥の地で、長い自治の伝統を誇り、いまも独自の市議会をもち、ロード・メイヤーとよばれるシティ・オブ・ロンドンの長を選挙するなど多くの特権を有する。面積はわずか約2.7平方キロメートル、夜間人口は1万人に満たないが、ここには世界の一流商社、銀行、保険会社などが集中し、昼間は30万人を超えるホワイトカラーで活気を呈する。第二次世界大戦中、空襲で大きな被害を受けたが、セント・ポール大聖堂、ギルドホールなど近世の優れた建物がまだ残り、2000年前の城壁・城門の一部も遺跡としてオフィス街に保存されている。しかし、1960年代以降、建物の高層化が目覚ましく、19世紀以前のロンドンのイメージは高層ビル群の谷間に消えてゆきつつある。とくに空襲で廃墟(はいきょ)と化した中心部のバービカン地区では、1960年代以降、大規模な再開発事業が進められ、多くの住宅、コンサート・ホール、劇場、学校などを立体的に組み合わせた近代的な街区につくりかえられた。シティの中央を東西に走るキャノン街の西に続くフリート街には内外の新聞社、通信社の本社・支局が軒を連ね、新聞街を形成する。フリート街の西端がシティの西の境で、この一帯には最高裁判所をはじめ法曹界の機関・団体が多い。

[井内 昇]

ウェストミンスター

フリート街の西に続くストランド通りを経てさらに西へ行くと、ネルソンの銅像と噴水とハトで有名なトラファルガー・スクエア(広場)へ出る。ここから南へ下れば官庁街のホワイトホールに至り、アドミラル・アーチをくぐり西へ美しい遊歩道のマルThe Mallを行けばバッキンガム宮殿に達する。ホワイトホールを中心とする一帯は中世に政治の中心として開かれたウェストミンスター地区で、国の中央省庁、首相官邸などが並び、官庁街の南に接してウェストミンスター寺院、時計塔のビッグ・ベンで親しまれる壮麗なゴシック様式の国会議事堂が偉容を誇る。バッキンガム宮殿の周りには大公園が多く、北西側に位置するハイド・パークは146ヘクタールの広さがあり、隣接するケンジントン・ガーデンズとあわせると総面積は249ヘクタールに及ぶ。

[井内 昇]

ウェスト・エンド

シティの西に広がる一帯はウェスト・エンドとよばれ、街路も整い建物もそろっているが、これはこの一帯が当初シティの富裕な商人の郊外住宅地として開かれたためである。しかし、現在ウェスト・エンドは高級商店、ホテル、劇場、その他各種サービス産業が集中するロンドン第一の繁華街を抱え、ボンド街、リージェント街などはとくに名高い。その心臓部にあたるのが「エロスの像」で知られるピカデリー・サーカス(広場)である。東寄りのホルボーン地区は、大英博物館やロンドン大学がある静かな文教地区である。「計画的につくられず、ただ大きくなっただけの町」と酷評されるロンドンでは、このホルボーン地区は近代的都市計画に基づいてつくられた数少ない市街地で、整然とした街路や緑の小公園が美しい街並みをつくりだしている。これらの小公園や、ハイド・パーク、リージェント・パーク(197ヘクタール)、リッチモンド・パーク(1000ヘクタール)などの市街地の大公園は、集合住宅に住むロンドン市民の心身の健康維持に欠かせないものである。

 シティの東には、テムズ川沿いの東の端に有名なロンドン塔があり、その背後にテムズ川に架かるタワー・ブリッジが見える。11世紀にウィリアム1世が築いたロンドン塔は、初めは城塞(じょうさい)、王宮として使われたが、のちに政治犯の牢獄(ろうごく)となり、多くの血なまぐさい歴史を残した。とくに断頭台の露と消えた王族・貴族の物語は、いまもここを訪れる人々の涙を誘っている。

[井内 昇]

イースト・エンド

タワー・ブリッジの下流両岸には、荷扱い量ではイギリス最大の港であるロンドン港がある。テムズ川の干満差が数メートルに及ぶため、巨大な閘門(こうもん)式ドック群が建設され、第二次世界大戦前は大型船も入港したが、戦後斜陽化が著しく、ドック地帯は荒廃した。このため、1970年代後半以降、大規模な再開発が進行中で、すでにオフィスビル群が出現している。戦前、このドック地帯には港に結び付いた倉庫業や各種軽工業が集まり、周辺に下級労働者の町が発生、一帯はイースト・エンドとよばれたが、生活環境が悪かったためイースト・エンドはスラムの別名となった。第二次世界大戦後の戦災復興事業でイースト・エンドは面目を一新した。テムズ川の南岸地帯は工場や労働者の住宅が多い新興の市街地であるが、その発展はテムズ川に多くの橋が架けられた19世紀以降のことである。

[井内 昇]

産業

700万人を超える人口を抱えるロンドンは多様な産業をもっている。大ロンドンの雇用者総数は約350万人で、その内訳をみると、サービス業が約75%と圧倒的に多く、ついで製造業、建設業・鉱業などとなっている。雇用者総数最大のサービス業について、さらにその内訳をみると、専門的サービス、商業、金融・保険、輸送・通信の順に上位を占める。第二次世界大戦前には世界の海運、金融・保険の中心として栄えたが、戦後はアメリカ、1970年代以降は日本の台頭でその比重は低下している。しかし、現在もEU内各国や第三世界相手の貿易・金融活動では重要な地位を占めている。またロンドンは2000年に及ぶ歴史的遺産や文化的資産に恵まれ、世界でも多くの観光客が集まる都市の一つとなっている。観光客を受け入れるホテルは伝統的高級ホテルから若者相手の大衆クラスまでそろっており、おもにウェスト・エンド地区に集まっている。

 大ロンドンは全国工場労働者数の17%を占めるイギリス製造業の一大中心地でもあるが、業種別に就業者数をみると、電気製品、出版・印刷、食品、機械、衣服などが上位に並んでおり、典型的な消費地立地型の構造を示している。工場の分布地域は、19世紀から受け継いだ市の中心部やイースト・エンドの古い工業地区と、1920年代に始まった中心部からの移動の結果、戦後とくに発展したテムズ川下流域沿岸や周辺近効部の新興工業地帯の二つに分けることができる。しかし、全国的な傾向を反映して、大ロンドンの製造業雇用者数は、1971年から1981年までの10年間に39万人の減少を示し、その後も減少が続いている。

[井内 昇]

交通

現在テムズ川には市内部分で14の道路橋が架けられ、河底トンネルも通じている。1750年に議事堂わきにウェストミンスター・ブリッジが架けられるまではロンドン・ブリッジが両岸を結ぶ唯一の橋で、いまでも単に「橋」といえばロンドン・ブリッジを意味する。橋も一例であるが、交通網の充実がロンドン市街地発展に果たした役割は大きい。ロンドンの代表的な公共交通機関は地下鉄とバスで、これらの路線網は市内だけでなく郊外にまで張り巡らされている。「チューブ」の別名をもつ地下鉄は、最初の路線が1863年に開通し、営業キロ延長は418キロ、うち地下部分325キロ(1983)で世界一を誇る。輸送人員数やサービスでは東京の地下鉄に一歩譲るが、路線網はとくに都心部で密で便利である。第二次世界大戦中、空襲時に避難場所として多くの市民の命を救ったことも忘れられない。バス交通は、きめの細かい路線網と頻繁な運行回数で地下鉄と並ぶ市民の足として親しまれており、赤い2階建ての車体はロンドンの町を象徴するアクセサリーの一つとなっている。

[井内 昇]

文化的資産

文化的資産の充実もロンドンの魅力の一つである。過去と現在が同居するロンドン市内には、歴史的価値の高い建造物も少なくないが、その過半数はシティ、ウェストミンスター両地区に集まり、しかもその多くがイギリス建築史を代表するクリストファー・レンの設計になる。大英帝国時代、国力を背景に世界各地から集めた豊富な文化財などを展示する各種博物館や美術館等も充実しているが、なかでも大英博物館は、エジプト文明以来の古代遺物や日本も含む東洋美術品のコレクションを中心とし、世界一の博物館とされている。ロンドンは音楽・演劇公演でも高い水準の活動がみられ、とくに演劇はこの国の伝統芸術で、40余の劇場のなかでもシェークスピア劇のオールド・ビック劇場はとくに名高い。その近くにあるロイヤル・フェスティバル・ホールは、都心のロイヤル・オペラ・ハウス(コベント・ガーデン王立歌劇場)とともにヨーロッパを代表する音楽の殿堂で、秋から春にかけてのシーズンに登場する音楽家たちの豪華な顔ぶれは他の追随を許さない。

[井内 昇]

都市問題とロンドンの将来

ロンドンも、東京、ニューヨークなどと並び、同じ過大都市の悩みを抱えている。とくに、19世紀に早くも過密の弊害に悩まされたロンドンは、1930年代に入り、国内の人口・産業分布の不均衡を是正する国の方針に基づき、その工業と関連人口を地方へ分散することが求められるようになった。第二次世界大戦中につくられた大ロンドン計画は、旧ロンドン県とその周辺が一体となった約1万1000平方キロメートルをロンドン大都市圏としてとらえ、既存の連続市街地の拡大を周辺にグリーン・ベルトを巡らせることで阻止し、その外側に八つの新しい工業衛星都市(ニュー・タウン)を建設してロンドンから工場と関連人口を受け入れ、内部の市街地は再開発によって整備しようとするもので、戦後、政府はこの計画を実施に移した。しかし、戦後の産業構造の変化や経済の斜陽化などもあって内部市街地の人口は予想以上に減少し、1961年からの20年間に130万人の減となり、とくにインナー・ロンドンとよばれる旧ロンドン県の部分では、住民の流出に伴い市街地の荒廃が著しく、深刻な社会問題を引き起こした。このため、1970年代後半に入ると、政府は都市政策の重点を従来の新市街地建設から既存市街地の再開発へ移し、内部市街地にふたたび住民や企業を呼び戻そうと努力している。ロンドンでは従来アメリカの大都市のような人種問題はまれであったが、戦後旧植民地から受け入れた大量の移民の多くがロンドンに定着し、市民の人種別構成も以前に比べると複雑化した。ロンドン中心部の街頭は、外国人観光客も加わりニューヨークのように多様な人種であふれている。これらの移民の一部は、市の南部や北部地区に集中的な居住区を生み出したが、これらの地区では、不景気で失業率が高まり生活不安が高じると暴動が発生するなど、新しい都市問題となっている。

 世界でもっとも早く大都市問題に直面したロンドンでは、第二次世界大戦後大ロンドン計画に代表される一連の大都市行政が取り入れられた。その実施にあたる地方政府の制度的改革の一環として、1855年のロンドン県設置以来の伝統をもつ統一的行政体をさらに発展させ、1965年に面積約1600平方キロメートルの連続する市街地を行政区域とする大ロンドン県が労働党政権により設置され、一元的な大都市行政の強化を図った。この大都市行政体は1986年に保守党政権のもとで廃止されたが、1997年に政権が労働党に移り、1998年に実施された「大ロンドン市議会」復活の是非を問う住民投票で過半数の賛成を得たため、いわゆる大ロンドンはGreater London Authority(大ロンドン行政府、大ロンドン市)として復活した。

 イギリスは今後ヨーロッパ連合(EU)の一員として生きてゆく以上、大陸に近いイングランド南東部は恵まれた気候と相まって今後さらに産業や人口が集まり、その中心であるロンドンは新たな発展を始める可能性が大きい。ロンドンが過去、現在、末来にわたって人々をひきつけているのは、ひと口でいえば、人々が都市に求める魅力がそろっているからである。「ロンドンに飽きた人はこの世に飽きたも同然だ。なぜならば、ロンドンにはこの世のすべてがそろっているのだから」という18世紀の文豪サミュエル・ジョンソンのことばは、現在もそのまま生きているといえよう。

[井内 昇]

歴史

概説

ロンドンの歴史が確認されるのは、紀元後43年にローマ人がこの地にやってきてからであるが、それ以前にもケルト系の先住民がこの付近に住んでいたものと思われる。ローマ人はロンディニウムLondiniumの町をつくり、テムズ川の渡河に適したこの地をブリタニアの道路網の中心とした。61年にイケニ人の女王ボアディケアの反乱で一度破壊されたものの、ロンディニウムは急速に復興し、商業で大いに繁栄した。5世紀の前半にローマ人が去り、ロンドンは後のアングロ・サクソン七王国の分裂時代には衰退した。その後ロンドンは徐々に商港としての繁栄を取り戻したが、この町の重要性が再度高まるのは、10世紀にイングランドが統一されてからである。11世紀に入ってクヌード(大王、在位1016~1035)とエドワード(懺悔(ざんげ)王、在位1042~1066)が、旧来のロンドンの西方、ウェストミンスターに王宮や寺院を建てたことは、ロンドンの歴史に大きな影響を与えた。以後ロンドンは、旧市街であるシティが商業の中心、ウェストミンスターが王宮の所在地で政治の中心という二重構造をもって発展していくことになる。

[青木 康]

商業の発展

1066年の征服(ノルマン・コンクェスト)後、ウィリアム1世はロンドン市に対して、前王エドワード治下で認められていた権利を保障するとともに、シティの東端にロンドン塔をつくり支配を固めた。12世紀前半に起こった大火の結果、多くの建物が石とタイル造に変わり、やがてロンドン橋も石造となった。このころからロンドンは旧来の市壁を越えて地理的に拡大する一方、1191年には自治都市となり、1215年以降は市長選挙が毎年行われるようになった。こうした発展の背後にあったのは商業の拡大で、各種のギルドがすでに12世紀に結成されている。他方、12世紀後半からイングランドの統治制度の整備が進み、13世紀に議会が誕生したことは、政治的首都ロンドンの成長をも促した。ロンドンは政治と不可分に結び付き、1381年のワット・タイラーの乱や1450年のケードの乱の際には反徒の侵入を受けた。ばら戦争(1455~1485)の時代には、ロンドンはヨーク派と良好な関係を維持して混乱を避けた。また疫病の流行も中世以来ロンドンを悩ませたものの一つで、14世紀中葉の黒死病(ペスト)の大流行では人口の過半が失われた。

 中世後期のロンドンは、ヨーロッパの国際的な商業網のなかでも重要な位置を占めた。ドイツのハンザ商人が13世紀にはロンドンに定着し、フランドルや北イタリアからきた人々とともにロンドンの商業や金融で力を振るった。北イタリア(ロンバルディア)出身の金融業者は、現在でもロンドン金融の中心地ロンバード街にその名を残している。最初羊毛の輸出港であったロンドンは、14世紀後半以降イングランドで羊毛工業が発達すると、毛織物の輸出港になっていった。初めは外国人商人が有力であったが、徐々にイギリス人の冒険商人組合(マーチャント・アドベンチャラーズ)が成長を遂げ、16世紀にはハンザ商人の勢力を駆逐することに成功した。その間ロンドンは国内の他の港を抑えて独占的な体制を固め、17世紀初頭にはロンドン経由の輸出貿易がイングランド全体の3分の2から4分の3を占める至った。

[青木 康]

ロンドンの拡大

チューダー時代に入り、ヘンリー8世(在位1509~1547)による宗教改革で修道院が解散されたため、ロンドンにおいても従来修道院がもっていた多くの土地が個人の手に移った。これによって得られた土地は、16世紀前半から急速に増大していた住民のための住宅用地にも使われ、17世紀初頭にはロンドンの人口は郊外も含めると20万人を超えていた。シティの東側に貧民街であるイースト・エンドが誕生し、また西側のウェスト・エンドには有力者や富裕者が住む街区ができ始めていた。ロンドンの拡大はテムズ川の北岸に限られず、シティの対岸にあたるサザークも発展しつつあった。このような急成長の原因の一つは、従来にも増して地方からロンドンへ地主が集まってきたことであった。中央集権化の進行とともに、裁判や政治的任務で首都ロンドンを訪れる地方地主が増大し、宮廷に職を得ようとする人々も上京してきた。借金や土地の売買のためにもロンドンは便利であった。こうして地主たちがロンドンに集まり、秋から翌年6月までの季節を社交界で過ごすという習慣のもとがつくられた。ロンドンに劇場が建てられ、シェークスピアの戯曲が演じられたのも、この時代のことであった。ロンドンの無秩序な拡大を防ごうとするエリザベス女王(1世、在位1558~1603)や初期スチュアート朝の王たちの試みにもかかわらず、ロンドンは消費の中心地としても発展を続けた。

 17世紀のイギリス革命(ピューリタン革命)では、ロンドンは議会派についた。1642年1月にチャールズ1世が5人の反対派議員を逮捕しようとしたとき、彼らはシティに保護され、それ以後首都の反王感情は急速に高まった。内戦が始まると、ロンドンは議会派の拠点として防備を固め、物資の欠乏に苦しみながら、議会派を財政面で支えた。しかし内戦の終結後に成立したクロムウェルの厳格な支配の体制はロンドンにとって好ましいものではなく、1660年の国王チャールズ2世の帰還は大歓迎を受けた。当時ロンドンは人口50万を擁するヨーロッパ一の大都市となっていたが、市内にはごみごみした貧民街が広がっていた。1665年にペストが流行した際には10万人近い人々が死亡し、王室をはじめとして多くの市民がロンドンを離れる騒ぎとなった。さらに1666年9月には有名な大火が起こり、セント・ポール大聖堂をはじめ多くの建物が焼失して、およそ25万の人々が家を失った。建築家C・レンらはすぐに再建計画を提出し、新たに建築上の規制が設けられ、ロンドンは数年のうちに復興した。ロンドンの拡大はもはや抑えることのできない事実となり、コベント・ガーデンなど新しい市場の開設も認められた。

[青木 康]

政治的成長

1670年代末から議会のなかにホイッグ、トーリーの党派対立が現れ、ロンドンはふたたび政治対立の舞台となった。一度は特許状を剥奪(はくだつ)されたロンドンのシティは、名誉革命に際して当然ウィリアムを支持し、1694年にはウィリアム3世の下でイングランド銀行が設立された。以後ロンドンはアムステルダムにかわって国際金融の中心地に成長し、シティの金融勢力はイギリスの政治にも強い影響力をもち続けた。ロンドンにおける活発な政治・経済活動を支えた背景として、17世紀の後半から自由な議論と情報交換の場であるコーヒー・ハウスが発展し、新聞・雑誌の増加が世論の形成を可能にしていたことは無視できない。首都において成長した世論は、18世紀の貴族政治の停滞・腐敗を抑制する機能を果たし、ときに民衆暴動のような形をとって政治に直接的に介入した。ロンドンの民衆運動のなかには、カトリック教徒の解放に反対するゴードン暴動(1780)のような保守的なものもあったが、1760年代のウィルクス運動以後、議会改革を求める急進主義運動が盛んになった。

[青木 康]

環境問題の発生

18世紀のロンドンは産業革命をリードするような工業都市ではなかったが、市内には小規模な作業場が数多く存在し、さらに政治、金融、商業、文化などの中心として、ますます多くの人口を吸収していた。19世紀の初頭までに人口は100万を突破し、ロンドンは「大きなできもの」とよばれる巨大都市となっていた。それに応じて、1750年にはテムズ川に架かる第二の橋としてウェストミンスター橋が完成したのをはじめとして橋や道路の整備が進み、19世紀に入るとガス灯や乗合馬車も登場した。また1829年にはピールの手で首都警察(スコットランド王のロンドン屋敷跡に面していたためスコットランド・ヤードとよばれるようになった)が設置された。こうして首都の市民生活は徐々に便利なものになっていったが、水や空気といった環境問題では難問が山積していた。とくに1858年の「大悪臭」は有名で、汚物が流れ込むテムズ川のあまりの悪臭に議会の討論も妨げられたといわれている。首都の環境は、衛生向上運動家チャドウィックSir Edwin Chadwick(1800―1890)らの努力によって徐々に改善されていったが、石炭の煤煙(ばいえん)によるスモッグは長くロンドンの住民を苦しめた。

 1836年ロンドンに鉄道が初めて登場し、1863年には地下鉄も開通した。鉄道などと並んで19世紀イギリスの繁栄と技術の勝利を示したのは、1851年にロンドンのハイド・パークで開かれた万国博覧会であった。これには半年間で600万人が見物に訪れ、そのなかには多くの労働者が含まれていた。3年前の1848年、ロンドンではチャーティスト運動を支持する民衆暴動が懸念されたが、この万国博の成功以後、そうした激しい階級対立は忘れられた。政治的自由の国イギリスの首都ロンドンには、マルクスのような大陸からの亡命者もきており、1864年には労働者の国際的組織である第一インターナショナルがロンドンで創立された。

[青木 康]

行政の発展

シティとウェストミンスターは本来別の町であり、19世紀中葉までロンドンは一つのまとまった行政区域ではなかった。ようやく1855年の首都圏管理法によって行政の統一が図られ、その後1888年にロンドン県庁が設置され、さらに1899年にも行政の改組が行われた。このような行政の整備が進む一方、電気の利用や自動車の出現によって、ロンドンは19世紀の末からさらに変貌(へんぼう)を遂げた。とくに目だつことは、1900年までにロンドン県の人口は450万に達していたにもかかわらず、そのうちシティに居住する人はわずか3万人であったという事実である。交通機関の発達に伴って、シティやウェスト・エンドで働く人々の多くは郊外に住むようになっていた。

 ロンドンは第一次世界大戦でドイツ軍の空襲を受け、2000人ほどの死傷者を出した。第二次世界大戦の被害はさらに大きく、空襲による死傷者は数万に達し、ロンドンは1666年の大火以来の大規模な破壊を被った。戦後は復興が進み、ロンドンは都市として今日なお拡大している。

[青木 康]

『J・R・ミッチェル他著、松村赳訳『ロンドン庶民生活史』(1971・みすず書房)』『C・ヒバート著、横山徳爾訳『ロンドン――ある都市の伝記』(1983・朝日イブニングニュース社)』『マクミラン社刊『ロンドン百科事典』(英語版・1985・PIC)』『桜庭信之著『ロンドン――紀行と探訪』(1985・大修館書店)』『スティーン・アイラー・ラスムッセン著、兼田啓一訳『近代ロンドン物語――都市と建築の近代史』(1992・中央公論美術出版)』『矢島鈞次著『1666年ロンドン大火と再建』(1994・同文舘出版)』『ヒュー・クラウト編、中村英勝監訳、青木道彦・石井摩耶子他訳『ロンドン歴史地図』(1997・東京書籍)』『ポール・ラクストン解説、ジョゼフ・ウィズダム索引編集、小池滋日本語版監修・訳『時代別ロンドン地図集成』(1997・本の友社)』『渡辺和幸著『ロンドン地名由来事典』(1998・鷹書房弓プレス)』『小林章夫著『図説 ロンドン都市物語――パブとコーヒーハウス』(1998・河出書房新社)』『香山寿夫監修、鵜飼哲矢著『ロンドンの近現代建築――古い都市が生み出した新しい空間』(1998・丸善)』『栂正行著『コヴェント・ガーデン ロンドンで一番魅力的な広場』(1999・河出書房新社)』『イギリス都市・農村共同体研究会編『巨大都市ロンドンの勃興』(1999・刀水書房)』『蛭川久康・桜庭信之・定松正・松村昌家、ポール・スノードン編著『ロンドン事典』(2002・大修館書店)』『アネット・ホープ著、野中邦子訳『ロンドン 食の歴史物語――中世から現代までの英国料理』(2006・白水社)』『近藤和彦・伊藤毅編『江戸とロンドン』(2007・山川出版社)』『小池滋著『ロンドン――ほんの百年前の物語』(中公新書)』『清水晶子著『ロンドンの小さな博物館』(集英社新書)』



ロンドン(Jack London)
ろんどん
Jack London
(1876―1916)

アメリカの小説家。占星術師の私生児としてサンフランシスコに生まれる。無軌道な少年時代ののち、アザラシ狩り船に乗り日本にも立ち寄る。帰国後、自国やカナダを放浪し、カリフォルニア大学に一時期在学、クロンダイク地方のゴールド・ラッシュに加わり、ついで新聞記者となる。日露戦争時、新聞社特派員として東京を経て満州(中国東北部)へ渡る。その間H・スペンサー、ダーウィン、マルクスらの著作に触れ、しだいに社会主義に傾倒した。一方、創作活動に努め、1900年、クロンダイク地方の体験を基に短編集『狼(おおかみ)の子』で文名を高める。以来流行作家として活躍、カリフォルニアに邸宅を構え、50冊に及ぶ小説、評論をものにし、一時名声と富をほしいままにする。しかし、世俗的欲望と己の主義の相克に悩み、1916年11月22日自殺を遂げた。おもな作品に、犬を主人公に、適者生存の社会を描く『荒野の呼び声』(1903)、これと対をなす『白い牙(きば)』(1906)、超人的船長を描く『海狼(かいろう)』(1904)、プロボクサーを描く『試合』(1905)、資本家によるファッショ化をつく一種の未来小説『鉄のかかと』(1908)、自伝的な『マーティン・イーデン』(1909)、ストライキを扱った『月の渓谷』(1913)、短編集『生命の愛』(1907)、評論集『階級闘争』(1905)、ロンドン貧民街の記録『どん底の人々』(1903)、自伝『ジョン・バーリコーン』(1913)などがある。

[板津由基郷]

『アービング・ストーン著、橋本福夫訳『馬に乗った水夫――大いなる狩人、ジャック・ロンドン』(1968・早川書房)』


ロンドン(Fritz Wolfgang London)
ろんどん
Fritz Wolfgang London
(1900―1954)

アメリカの理論物理学者。数学者を父に、ブレスラウ(現、ポーランドのブロツワフ)に生まれ、ボン大学、ミュンヘン大学などに学んで1921年学位を取得。その後、中等学校の教師になったが、ふたたび研究生活に戻った。1933年ナチスの台頭でドイツを離れ、オックスフォード、パリで研究を続け、1939年アメリカに渡り、デューク大学理論化学教授となり、生涯その地位にあった。1927年ハイトラーとともに水素分子の構造を量子力学的に論じ、化学結合の量子論を開拓した研究(ハイトラー‐ロンドンの理論)は著名である。ほかに極低温現象の研究、超伝導に関する現象論的な式(ロンドン方程式、1935年)の提出も重要な業績であり、液体ヘリウムに関する研究もある。なお、イギリスで活躍した物理学者のハインツHeinz London(1907―1970)は弟である。

[藤村 淳]


ロンドン(カナダ)
ろんどん
London

カナダ、オンタリオ州南東部の都市。トロントの南西175キロメートル、テムズ川中流沿岸に位置する。人口33万6539、大都市圏人口43万2451(2001)。エリー湖岸に外港ポート・スタンリーをもち、鉄道が集まる交通の要地である。また、オンタリオ半島の豊かな農業地域の中心地でもあり、農産物の集散地としてのほか、食品加工、紙、織物、電気製品などの軽工業が発達する。1826年に建設され、55年より市制が施行された。街路、建物、公園などはイギリスのロンドンを模している。ウェスタン・オンタリオ大学(1878創立)の所在地でもある。

[山下脩二]

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改訂新版 世界大百科事典 「ロンドン」の意味・わかりやすい解説

ロンドン
London

イギリス,イングランド南東部にある同国の首都。ニューヨーク,東京などと並ぶ世界最大の都市の一つで,国際的な政治,経済,文化の中心地である。かつての大英帝国,現在のイギリス連邦の中心でもあり,近代においてはしばしば国際会議,国際条約締結の舞台となった。地名はケルト語で〈荒れた〉を意味するロンドlondoに由来し,ローマ時代にはロンディニウムLondiniumまたはロンディニオンLondinionと呼ばれた。日本では〈倫敦〉と表記することもある。行政上の市域にあたるグレーター・ロンドンの面積は1579km2,人口は717万(2001)で,その中心のシティ・オブ・ロンドン(略称シティ)のほか,1888年設定のカウンティ・オブ・ロンドンの範囲を指すインナー・ロンドン(13区),旧ミドルセックス州全部およびハーフォードシャー,エセックス,ケント,サリー各州の一部から形成されたアウター・ロンドン(19区)の合計32のバラborough(区)から構成される。

北海に注ぐエスチュアリー(三角江)の河口から約64kmさかのぼったテムズ川の下流南北両岸にまたがり,中心部は北緯51°30′に位置する。地質的には北西をチルターン,南をノース・ダウンズという二つのチョーク層丘陵に囲まれた向斜構造のロンドン盆地底部にあり,地表はロンドン粘土層と呼ばれる重粘土質土壌で覆われる。シティなど都心部はテムズ川の砂礫段丘上を占め,テムズ河畔には低湿なはんらん原が広がる。こうした地形のため,初期の集落は高燥な砂礫段丘上に形成され,また砂礫段丘がテムズ川の両岸近くまで舌状に張り出した地点が渡河に有利なため,そこにロンドン最初の橋であるロンドン橋が建造された。市内を東西に貫流するテムズ川は川幅180~270mに達し,潮汐限界点にあたるため河港としての機能が大きい。かつてはウォールブルック川,フリート川などの支流が市内からテムズ川に流入していたが,現在は暗きょ化されている。

 気候は高緯度にもかかわらずメキシコ湾流の影響で温和である。年平均気温は10.5℃。最暖月(7月)は17.6℃と冷涼であるが,最寒月(1月)は4.2℃で,年較差が小さい。これに対して年降水量は594mmと東京の約5分の2程度で,季節的な変化も少ない。ただ降雨日数は年間168日と多く,湿度も高い。冬季の濃霧は有名であるが,かつてのスモッグは1956年の大気浄化法制定以後,石炭使用が規制され激減した。

イギリス経済の相対的低下にもかかわらず,ロンドンは依然としてイギリス連邦,ヨーロッパ共同体はじめ世界の経済中心としての地位を保持している。とくに貿易,金融面での影響力は強く,シティには1694年設立のイングランド銀行をはじめ,株式・為替・商品の各取引所,保険会社,商社が集中して,その動向は国際的に注目されている。またロンドン自体が巨大な消費市場であるため,商業活動も活発である。スミスフィールドの肉市,スピタルフィールズ,およびコベント・ガーデンから移設されたナイン・エルムズの両青物市などの伝統的な卸売市場のほか,ウェスト・エンドのリージェント街,ボンド街,オックスフォード街が高級ショッピング街として名高い。ロンドンは工業都市としても重要であり,ウェスト・エンドやイースト・エンドには衣服,宝石などの小規模な消費財工業が,テムズ川下流沿岸にはセメント,精糖,自動車,造船などの重工業がそれぞれ立地する。また周辺のアウター・ロンドン,外周部のニュータウンにも,航空機,電気機械,出版・印刷,食品などの新しい工業地域が形成されつつある。

ロンドンは国内交通およびヨーロッパ大陸との連絡交通の要衝を占めている。都心には大陸へ通じるビクトリア駅をはじめ北部地方へのユーストン駅,キングズ・クロス駅,西部へのパディントン駅,東部へのリバプール・ストリート駅,南部へのウォータールー駅などの国鉄の始発駅が環状に配列され,それらを地下鉄が結んでいる。また国際空港としては都心より西方24kmにあるヒースロー空港が主役であり,南方43kmにあるガトウィック空港がそれを補っているが,混雑緩和のため第3の国際空港の建設が計画されている。なお,1994年開通のユーロトンネルにより,ロンドン~パリ間は特急列車ユーロスターで約3時間で結ばれることになった。市内の交通機関としてはロンドン交通局の赤い2階建てバスが著名である。市内の近距離路線専用で観光用にも利用されており,郊外へは緑色のグリーン・コーチのバス路線が延びる。また黒塗りのタクシーも市民の足となっている。地下鉄は1863年に蒸気機関車で開通し,その後電化によって通称〈チューブ〉と呼ばれる地下鉄網が拡充され,現在8路線,総延長約420kmに及んでいる。ロンドン橋から下流のテムズ川沿岸に発達したロンドン港は世界有数の貿易港となっている。掘込み式で,埠頭,倉庫などの設備を有するローヤル・ドック,西インド・ドックなどのおもな三つのドック群が並び,1909年以後はロンドン港湾局の管理となって,砂糖,茶,木材,羊毛などの食品,工業原料の輸入と工業製品の輸出を行っている。

ロンドン市内には各種文化施設が多く,歴史的建造物にも富むため,国際的な文化中心ともなっている。とくに博物館,図書館,美術館が集中しており,なかでも世界各地からの文化財を収蔵する大英博物館と大英図書館が代表的である。このほかサウス・ケンジントンには自然史,科学などの博物館,シティにはロンドン博物館がある。また美術の展示ではトラファルガー広場に面するロンドン・ナショナル・ギャラリー,テムズ河畔のテート・ギャラリーが知られる。劇場やホールも多く,テムズ南岸のローヤル・フェスティバル・ホール,コベント・ガーデンのローヤル・オペラ・ハウスなどが著名である。建築物は枚挙にいとまがないが,バッキンガム宮殿セント・ジェームズ宮殿,ウェストミンスター・アベーセント・ポール大聖堂のほか,国会議事堂(イギリス国会議事堂),ロンドン塔などがロンドンを象徴する建築群である。1836年創立のロンドン大学はイギリス最大の総合大学で,市内に多くのカレッジ,研究所が分散しており,伝統あるオックスフォード,ケンブリッジ両大学に対して新しい学風を形成している。また東部郊外のグリニジにあった天文台は1884年に子午線の基準となったことで有名である。1960年代以降のロンドンはニューヨーク,パリと並ぶファッションの先端地ともなり,ミニスカート,パンク・ルックなどの新しい風俗を次々と生み出している。

大都市にもかかわらずロンドンには約8000haの公園,緑地があり,都市の緊張を緩和している。最大のリージェント・パーク(182ha)をはじめ,ハイド・パーク(146ha),ケンジントン・ガーデン(133ha),セント・ジェームズ・パーク(38ha)などがおもな公園で,これらは王室やウェストミンスター・アベーの所領が市民に開放されたものである。またグレーター・ロンドン外周部には1935年に設定された幅10~20kmの環状のグリーンベルトが取り巻き,市街地拡大を抑制すると同時に,レクリエーションにも役だっている。このグリーンベルトの外側には20世紀初期に田園都市,第2次大戦後にニュータウンが建設され,産業,人口の分散化を図っており,広域都市圏計画のモデルとなっている。このためロンドンの人口は都心から郊外へ移動しつつあり,シティでは1851年より,インナー・ロンドンでは1901年,アウター・ロンドンでは1951年よりそれぞれ人口が減少して顕著なドーナツ化現象を示している。また第2次大戦時の空襲で大きな被害を受けた都心部では大規模な再開発計画が実施されており,バービカン地区では1973年以来,高層の住宅,オフィス群,ホール,ショッピング・センターを有機的に結合した改造計画が推進された。かつてのスラム街イースト・エンドもステプニー・ポプラー計画によって労働者アパートへの転換が図られている。しかし世界の他の大都市に比べて一般に高層建築や高速道路が少なく,歴史的都市の面影を強く残している。
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中心部のロンドン(インナー・ロンドン)は,おおまかにいうとテムズ川によって北部と南部に分断され,より繁華な北部は,さらにシティを中心にその西側のウェスト・エンドと東側のイースト・エンドに大別される。シティはロンドン塔を東端とするほぼ1マイル(約1.6km)四方の土地で,イングランド銀行をはじめとする多数の銀行,王立取引所,ロンドン株式取引所,市庁官舎,セント・ポール大聖堂,ギルドホールなど主要な歴史的建造物が集中している。第1次大戦後,シティの世界金融市場に対する支配力は弱まったが,今でもこの地は世界有数の金融・保険・商取引の中心地である。シティの東端ロンドン塔から東方は,タワー・ハムレッツなど,いわゆるイースト・エンドのドック地帯となり,港としてのロンドンの機能を担っている。歴史的には港湾労働者を中心とするスラム街ともなっていたので,トインビー・ホールのようなスラム改良運動のセツルメントも認められる。セント・ポール大聖堂から,1980年代半ばまでは各新聞社の社屋が立ち並んだフリート街を西へ進むと,道路の名称がストランドと変わるあたりに,テンプル・バーの跡がある。ここにかつてシティ西端の市門があって,そこから西がウェスト・エンドである。ウェスト・エンドでは多様な性格の地域が入りまじっているが,リンカンズ・イン・フィールズなどの高級住宅街,ソーホーを中心とする歓楽街,セルフリッジ,リバティーなどのデパートや著名な商店の並ぶオックスフォード街,リージェント街,ピカデリーなど,またオックスフォード街の北部に広がる大英博物館やロンドン大学などのある文教地区(知識人が蝟集(いしゆう)したスクエアの名をとって,ブルームズベリー地区と総称することもある)などがある。さらに南西へ行くと政治の中心地ウェストミンスターの中心部に入り,国会議事堂やバッキンガム宮殿のほか,ハイド・パーク,グリーン・パークなどの公園が広がり,北方にはロンドン動物園を含むリージェント・パークがある。この公園の北辺に沿ってリージェント運河があり,遠く中部イングランドへ続くグランド・ユニオン運河につながっている。ハイド・パークの西にはケンジントン・ガーデンとケンジントン宮殿があり,南にはコンサート・ホールのローヤル・アルバート・ホールがある。さらに南へ下ってテムズ川に近づくと,高級住宅街として知られ,T.カーライルの家などのあるチェルシーがある。ただし,この地区の中央を斜めに貫くキングズ・ロードは,かつてヒッピーが,そして今日ではパンク・ルックの若者が集まる通りとして知られている。

グレーター・ロンドン地域の行政機構にあたるグレーター・ロンドン・カウンシル(略称GLC)は,1965年に首都行政機構改革の一環として成立し,20年にわたって広域自治体として機能してきた。サッチャー保守党政権の下で,労働党の支配する大都市自治体の〈浪費〉として批判され,86年に廃止されたが,広域行政の一典型とされてきた(〈イギリス〉の[国政の概略]の項を参照)。GLCは4年任期の92人の議員によって構成され,長期の大規模な開発,交通,下水道,消防などの行政責任を負っていた。GLCの先駆となったのは,1888年に地方行政法で創設されたロンドン・カウンティ・カウンシル(略称LCC)であった。LCCは,カウンティ・オブ・ロンドン(1961年時点で303km2,人口320万)を管轄下に置き,下水道,建築規制,住宅供給,消防,交通などを担当した。この組織は直接市民によって選出されるようになった最初の首都当局で,3年任期の126人の議員とそこで選出される6年任期,21人の参事会員によって構成されていた。テムズ川に二つのトンネルをつくり,1904年以後は教育行政についても責任を負った。

 LCC成立前には,1855年の首都運営法で成立した首都事業委員会Metropolitan Board of Worksが,市政の中心になっていた。ロンドンの下水道システムの基本を確立し,テムズ北岸のビクトリア・エンバンクメント(堤防)などをつくったこの組織は,のちのカウンティ・オブ・ロンドンのほぼ全域を管轄地域とする最初の行政組織で,主要教区会議の代表などからなる38人の議員が構成した。首都事業委員会成立以前には,広義のロンドン(シティの城壁を越えて開発されていった地域全体)を統括する行政組織は存在せず,伝統的なシティの当局が最も重要な行政機構となっていた。実権を握っていたのは市参事会Court of Aldermenで,ほかに市議会があり,日常業務はシェリフたちが担当した(マンション・ハウスを公邸とした市長は,現在に至るまで1年任期で,名誉職的存在である)。市参事会員は各区wardの自由市民(一定の徒弟期間を終えた職人,市民権を金で買い取った者など)によって選ばれる終身職で,同時に治安判事をも兼ねていた。さらに,有力ギルドはすべて彼らの管轄下に置かれていた。

43年,ローマ皇帝クラウディウス1世はブリタニアを征服,テムズ川の北岸に植民地ロンディニウムを建設した。これがシティの始まりである。まもなく,ロンドン橋が架橋され,ローマ人によるグレート・ブリテン島支配のための道路網(ウォトリング街道など)の中心,および港として,この集落はきわめて重要になってゆく。諸説があるが,2世紀末くらいまでには市壁も建設されたと思われる。5世紀初めには,ローマの軍団が引き揚げ,アングロ・サクソン人がこの地を支配するようになる。7世紀初めには,セント・ポール大聖堂が設立されたが,宗教的にはカンタベリーが中心になったため,ロンドンはこの面でだけは後塵を拝することになる。アングロ・サクソン時代末期にあたる11世紀には,すでに20人の金融業者が営業していたといわれるほど,港を中心とする経済活動が活発になった。また,同じころ,西南部郊外のウェストミンスターに宮殿と修道院がつくられ,政治の中心としてロンドンが発達する素地がつくられた。ただし,この時代にはなお,国王は絶えず国内を移動していたので,ロンドンが首都だという意識はなかったといわれる。

 1066年にイギリスを征服したウィリアム1世(征服王)は,ただちにウェストミンスター・アベーで即位,ロンドンの支配と防衛のためにホワイト・タワー(のちのロンドン塔)を築き,王権とロンドンとの結合を強めた。ロンドンが首都とみなされ始めたのである。12世紀末には,126の教会と13の修道院を数え,すでに市壁外に開発が進んでいた。馬の競売や競馬,熊いじめなどのレジャーも行われ,都市の生活文化が定着してもいた。ヘンリー1世治下の12世紀初め,シティはいくつかの区に分けられ,それぞれが参事会員つまり治安判事の管轄区ともなった。ロンドンの自治権はこのころになって事実上成立したと考えられる。ギルドも次々と成立し,最初のギルドホールも建てられた。貿易の拡大はめざましく,主としてケルンなどのドイツ商人,さらにのちにはフランドルやイタリアの商人などが来訪した。ついでスティーブン・マティルダ内乱時代(1135-53)やジョン欠地王(在位1199-1216)の時代に,ロンドンは一方で市参事会や市長選出などの制度を整えて自治権を確立し,他方では,国政に対しても強い発言権をもつに至った。以後,14~15世紀にはウェストミンスター地区を中心に宮廷,議会,法廷など主要な政治機構が置かれ(議会もエドワード懺悔王(在位1042-66)時代につくられたウェストミンスター宮殿で開かれた),政治の中心舞台となった。1381年のワット・タイラーの乱や1450年のジャック・ケードの乱などに際しても,ロンドン市の態度が国政の行方を決定した(この傾向はのちのピューリタン革命に至って頂点を迎える)。また,新型のギルドであるリバリド・カンパニーが勃興し,とくに有力な12組合が13世紀中ごろ以降,市政を牛耳ると同時に,徒弟制度を監督するなど市民生活にも決定的な力をもつようになる。これらの組合は,圧倒的な経済力を利用して,救貧活動や教育にも貢献し,市内にもセント・ポール校などいくつかのパブリック・スクールを創設,グレーズ・インなど14~15世紀に相次いで成立した四つの法曹学院(インズ・オブ・コート)とともに,ロンドンが教育の一中心にもなってゆく前提を築いた。14~15世紀は,イギリスが羊毛輸出国から毛織物輸出国に転換した時代であるが,この変化に対応して,北西ヨーロッパへの毛織物輸出の独占権を握った冒険商人組合(マーチャント・アドベンチャラーズ)が有力となり,16世紀には市政ばかりか国政にも大きな影響力をもつに至る。

ヘンリー8世の宗教改革に伴って,1536年と39年に行われた修道院解散は,イギリスの社会,経済に大きな変化をもたらしたが,ロンドンでも多くの修道院が世俗の目的に転用され,ロンドン大発展の前提となった。16世紀前半には,上記冒険商人組合を軸とするアントワープ向け毛織物輸出が激増し,〈ロンドン=アントワープ枢軸〉とさえ呼ばれる関係が成立したが,ロンドンの貿易の発展は地方港を犠牲にした一面があり,以後,産業革命前夜に至るまでのロンドンと地方都市の利害対立の原形も生じた。16世紀後半になると,為替変動やネーデルラント独立戦争のあおりで,アントワープ市場が崩壊したため,モスコー会社(別名ロシア会社,1555年設立),トルコ会社(1581年設立,92年レバント会社に改組)など新しい貿易会社がいずれもロンドンに成立,1600年には東インド会社も創設された(カンパニー制度)。17世紀前半のロンドン市政は,主としてこれら東方遠隔地との貿易に従事した商人たちによって担われる。この間にもロンドンは,ジェームズ1世をして〈いまにイギリス全体を飲み込むだろう〉と言わしめるほどの発展,繁栄ぶりを示し,1568年にT.グレシャムが創立した王立取引所が経済繁栄のシンボルとなった。16世紀末以降,しだいに地方の地主貴族,ジェントリー(ジェントルマン)がロンドンに滞在して社交生活を送る〈ロンドン・シーズン〉(ほぼ5~7月)の風習も生まれ,ルネサンスの潮流にも乗って,観光や文化の中心ともなった。王の猟場であったハイド・パークが一般に公開され,社交場の一つになったのも,シェークスピアやベン・ジョンソンの芝居がしきりに上演されたのも,また絹工業や陶器業,ガラス工業などの奢侈品工業が市内に成立したのも,このような繁栄を背景にしてのことである。こうした傾向はいずれも,17世紀後半になると,とくに爆発的に展開する。他方,華やかな16~17世紀のロンドンは,貧困と犯罪の巣ともなっていったから,全国に先がけて1547年,救貧税を設定,セント・バーソロミューなど五つの王立病院もつくられた。郊外地の人口密度が高くなり,17世紀初頭で城壁内人口7.5万に対して,城壁外人口は15万と推定される。ロンドン橋を渡ったテムズ南岸のサザークもこのころから本格的に開発され,イギリス南部への交通の起点となった。しかし,それ以上に西部(ウェスト・エンド)が法曹学院のあるリンカンズ・イン・フィールズを中心に,〈ロンドン・シーズン〉などで上京する地方の貴族,ジェントリーのためのマンション地帯として開発された。他方,東部郊外(いわゆるイースト・エンド)のホワイトチャペルやウォッピング地区にもしだいに人が住みつき,すでにスラム化の傾向を示していた。エリザベス朝後期から王室財政が悪化するにつれて,ロンドン商人による王室への金融が盛んになるなど,絶対王政との癒着を示す一面もあったが,他方では,船舶税問題などをきっかけとして,ピューリタン革命期にはロンドン商人層が議会派の中心勢力の一つともなったし,さらに,王政復古(1660)でも彼らはむしろ中心的な役割を果たしている。シティの立場は,特定のイデオロギーや体制に固執するのではなく,つねに安定した政府を希求するものであった,といえよう。いずれにせよ,革命中から王政復古期にかけて生起した,航海諸法の制定や東インド会社改組(1657),第1次対オランダ戦争での勝利などの諸事件は,ロンドン商人の勢力を急速に拡大させた。1660年のロンドンは人口がほぼ50万でヨーロッパ随一の都市となったが,イギリスでは2位のブリストルが人口約3万であったから,その圧倒的大きさがわかろう。

王政復古後まもなく,ロンドン史の大転換点となる事件が二つ起こった。1665年のペストの大流行と翌年9月のロンドン大火とである。ペストは春に大流行し,ピーク時には週7000人,全体では10万人が死んだといわれ,富裕者層はいっせいに市外に逃げ出した。大火はプディング・レーンのパン屋から出火,シティ西端を除き,市域の5分の4が焼けおちた。王立取引所,税関,市庁舎,各ギルドの44ホール,セント・ポール大聖堂,87の教区教会などが焼失した。しかし,この事件はロンドン再開発のかっこうの機会ともなり,一種の復興ブームが到来し,建築家C.レンの設計に従って,街並みやセント・ポール大聖堂をはじめ各種施設が復興した。とくに,火災再発予防の見地から木造建築が禁止されたために,ロンドンの外観は一変した。

 王政復古期には,新しい航海法が制定され,奴隷貿易のための王立アフリカ会社が設立されて,第2次・第3次対オランダ戦争にも勝利した結果,イギリスの貿易はヨーロッパ外の地域とのそれを中心に,爆発的に成長した。〈商業革命〉の名で呼ばれるこの現象は,ロンドンの圧倒的な繁栄を生み,茶,タバコ,砂糖,チョコレート,綿布,絹などエキゾティックな商品の大量の流入ともあいまって,伝統的な農村的,ジェントルマン的な文化と区別しうる近代的,市民的な生活文化がこの地に成立した。そうした文化の核になったのが,この時代に急激に発展したコーヒー・ハウス(喫茶店)である。最盛期にはロンドンだけで数千軒を数えたコーヒー・ハウスでは,文学,芸術,科学,政治,経済などの諸問題について,情報や意見が交換された。この新しい生活文化は,やはりこの時代に急速に確立したロンドンのインinn(宿屋)と地方のインとを結ぶ定期馬車便のルートなどに沿って,地方都市にも普及した。馬車旅行が容易になると,ロンドンと地方の人的交流も盛んになり,ロンドンの人口はますます増大した。従来の家畜市場のスミスフィールドや魚市場のビリングズゲートに加えて,コベント・ガーデンやスピタルフィールズに青果市場が成立したのはその反映である。

 1688年の名誉革命では,ロンドン市民の国政への発言権がいっそう強まった。94年には国債発行のための機関としてイングランド銀行が成立,シティが世界の金融市場の核となってゆく素地が築かれた。貿易と金融を軸として繁栄した18世紀のロンドンでは,中・下層市民による急進主義的な運動も展開され,ジョン・ウィルクス(ウィルクス事件)がその指導者となった。文化的には〈ロンドン・シーズン〉の習慣がいっそう定着し,ジェントルマンや上流市民の社交場としてラニラ・ガーデンやボクスホール・ガーデンのような社交公園が栄えた。S.ジョンソン博士を中心に文壇といえるものも成立,W.ホガースらの画家もその周辺に位置した。ウェスト・エンドを中心に劇場も増え,D.ギャリックのような人気俳優も出現した。この間にもメリルボーン,イズリングトン,ベスナル・グリーンなど郊外地が次々と開発され,人口増加が続いた。テムズ川にも第2の橋ウェストミンスター橋が1750年に架けられ,1769年にはブラックフライアーズ橋が建設された。汚れの激しくなったフリート川が暗きょ化され,市門が取り外されたのもこのころである。

ランカシャーやミッドランズを中心に産業革命が進行していった18世紀末から19世紀初頭にかけて,ロンドンではむしろ従来存在した製造工業の多くが失われたが,政治や,金融・商業などの第3次産業の分野では,イギリス全体が世界経済の中心になってゆくのに伴って,その重要性をいっそう高める。こうした経済的性格の転換に対応して,たとえば貿易のための港湾施設の整備が進められ,19世紀初頭西インド・ドック,サリー・ドック,東インド・ドックなどが相次いで建設された。これらのドックに働く労働者は,ロンドンに特有の苦汗労働の典型とされる〈針子〉などと並んで,下層住民層の中心を形成,1889年には大ストライキを行って,労働運動史に転機をもたらした。いずれにせよ,19世紀中に市街化地域の人口は6倍以上になったと推定される。その分だけ住宅,上・下水道,公害,交通,犯罪,福祉,教育などの問題が深刻化し,冒頭に略述した行政機構がほぼこうした問題への対処をおもな任務として次々と成立したのである。

 1780年のゴードン暴動をはじめ,暴動も多くなってきたのに対応して,85年には治安判事フィールディング兄弟以来の夜警制度に加えて昼間の警察制度がつくられ,1829年に至って首都警察(スコットランド・ヤード)が本格的に形成された。ガス灯も1810年以降急速に普及し,首都事業委員会による下水道の整備も行われた。ユニバーシティ(1826設立),キングズ(1828)両カレッジなどを核としてロンドン大学が創設されたのは,1836年である。ロンドンの主要な鉄道駅は,ブラックフライアーズとメリルボーンを別にして,ほとんどが1836年から70年代までの間に建設された。すなわち,1836年のロンドン・ブリッジ駅に次いで38年にはバーミンガムへ通じるユーストン駅がつくられた。また,63年には,パディントン駅からファリンドン・ストリートまで,世界最初の地下鉄道メトロポリタン鉄道が開通した。

 大英帝国が繁栄の頂点にあったビクトリア時代を象徴して,1851年には万国博覧会がハイド・パーク(クリスタル・パレス)で開かれ,内外から600万人が見物に訪れた。公園,美術館,博物館などの整備は,すでに18世紀から進んでおり,1759年には大英博物館(現在の建物は1847年に完成)が創設された。1857年にはビクトリア・アンド・アルバート美術館が完成した。1829-41年にはトラファルガー広場が整備され,1838年にロンドン・ナショナル・ギャラリーが創設された。ビクトリア時代のロンドンは,世界最大の都市として繁栄したが,1837年に完成したバッキンガム宮殿やその近傍に集中する上流人士のクラブ・ハウス群などに象徴される一面と,パブや〈切裂きジャック〉事件に象徴されるような,民衆文化,貧困と犯罪,売春などの世界との二面性を色濃く示した。

20世紀に入ると,シティのビジネス街をはじめ,中心部のロンドンでは定住人口が減少に転じ,ドーナツ化現象が進行した。1951年以降はグレーター・ロンドンの範囲についても,人口減少が続いている。しかし,少なくともそれ以前にはグレーター・ロンドンの範囲では人口増加が続き,開発に伴う諸問題(交通,住宅,上・下水道など)が深刻化した。また,両次大戦の被害も大きく,人的被害だけでも,第1次大戦で2632人,第2次大戦では3万人が空襲によって死亡した。第2次大戦以後は,旧植民地出身の入移民(19世紀以来のアイルランド人のほか,西インド諸島系黒人,インド人,パキスタン人,香港系中国人など)が多数住みつき,人種のるつぼの観を呈するとともに,人種問題が他の社会問題と絡まって,差し迫った問題となっている。
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ロンドン
Jack London
生没年:1876-1916

アメリカの小説家。サンフランシスコで,占星術師の私生児として生まれたとされる。青少年時代を無頼と放浪のうちに過ごし,カリフォルニア大学に1学期在籍,その前後にスペンサー,ダーウィン,マルクス,ニーチェ等を愛読,特に社会主義の影響を受けた。その後アラスカのゴールドラッシュに加わり,その経験を素材にした9編の短編小説は《狼の子》(1900)にまとめられ,好評を博した。ロンドンのスラム街の調査,日露戦争等の特派員活動にも従事。アラスカの大自然の中で野性に目覚めていく犬を主人公にした《荒野の叫び声》(1903。初訳は堺利彦による),それと逆の過程を扱う《白い牙》(1906),ニーチェ流超人思想を反映した《海狼》(1904),資本主義の未来を描く《鉄の踵》(1907),半自伝的な《マーティン・イーデン》(1909)等,人気作家として,数多くのロマンティックで自然主義的な作品を書いたが,自己の本性と信条の葛藤に悩み,自殺した。
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ロンドン
Fritz London
生没年:1900-54

アメリカの物理学者。ドイツのブレスラウの生れ。ゲッティンゲン大学およびミュンヘン大学に学び,1928年よりベルリン大学私講師となる。33年ヒトラー政権に追放されオックスフォード大学,ソルボンヌ大学で研究,39年アメリカに渡る。以後デューク大学理論化学教授。初期の研究では量子力学によって化学結合やファン・デル・ワールス力を解明することに力を注いだ。とくに27年ハイトラーW.Heitler(1904-81)とともに行った水素の分子構造についての量子力学的研究(ハイトラー=ロンドンの理論)は量子力学の化学への導入に先鞭をつけるものであった。その後極低温の研究に着手し,超伝導に関する現象論的な式(ロンドンの方程式,1935)や液体ヘリウムの超流動に関するロンドンの関係式(1938)を提案した。主著には《量子論と化学結合》(1928)など。
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ロンドン
London

カナダ,オンタリオ州の都市。大都市域人口46万4304(2005)。肥沃なオンタリオ半島の中央部にあり,酪農製品,トウモロコシ,果物などの集散地。トロントとデトロイトの中間に位置して,交通の要地となり商工業も発達している。1826年,この地を流れるテムズ川のほとりにイギリス人が町を建設,市名をイギリスのロンドンにちなんで命名した。市内にもロンドンに由来する地名が多い。このほかオンタリオ州南部には,エーボン川があり,そのほとりには(カナダ)シェークスピア劇場のあるストラトフォードと呼ばれる町があるなど,イギリスの影響が強い。
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ロンドン
Cândido Mariano da Silva Rondon
生没年:1865-1958

ブラジルの探検家。マト・グロッソ州出身の職業軍人で,コントの実証主義を信奉した。25年間インディオ部落を旅して,1910年,初代のインディオ保護局長官に任ぜられた。5万km2に及ぶ地域の地図を作製し,電信網を完成させた。最近,急速に開発がすすめられているロンドニア直轄州は,彼の事業を記念して命名された所である。
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百科事典マイペディア 「ロンドン」の意味・わかりやすい解説

ロンドン

英国の首都。イングランド南東部,テムズ川両岸にまたがる同国最大の都市。中心をなすのはシティで,ほかにウェストミンスターなど12区がカウンティ・オブ・ロンドンを形成していたが,首都圏の拡大と広域行政の立場から,ミドルセックス,ケントやエセックスの一部など,ロンドン橋からほぼ半径24kmの地域までを含むグレーター・ロンドンGreater London(シティのほか32区)が1965年に形成された。この広域行政圏は1986年市議会とともにサッチャー首相によって廃止され,行政事務は各区に移管された。 英国の商工業・金融・文化・政治の中心であるだけでなく,世界の金融・保険の中心でもある。シティ,ホルボーン,フィンズベリーなどが商取引・金融地区で,ロンバード街を中心にイングランド銀行や各国金融機関の店舗が密集する。シティ西方のウェスト・エンドはウェストミンスター,ケンジントンなどからなり,バッキンガム宮殿イギリス国会議事堂,諸官庁,ピカデリー・サーカスなどの繁華街や高級商店街,高級住宅地がある。シティ東方のイースト・エンドはかつてスラム街であったが,第2次大戦の戦災を機に面目を一新,テムズ川南岸や東部は工業地区をなし,製油,製粉,セメント,機械,印刷・出版,繊維などの工業が発達している。ロンドン橋より下流のテムズ川沿岸は港湾地区をなす。ウェスト・エンドを中心に大英博物館ナショナル・ギャラリーテート・ギャラリー,テート・モダン,ウェストミンスター・アベーセント・ポール大聖堂ロンドン大学などの教育文化施設が多く,リージェント・パーク,ハイド・パーク,ケンジントン・ガーデン,グリーン・パークなどの公園がある。幹線鉄道が集結し,都心部に地下鉄が発達。その地下鉄が2005年7月,スコットランドでG8サミット開催中に同時多発テロでアル・カーイダ系とみられる組織に攻撃され,2011年8月,ロンドンで格差社会に不満を持つ若者を中心とする大きな暴動が起こったが,2012年夏期オリンピック開催を成功させ,治安安定を印象づけた。ロンドンでのオリンピック開催は64年ぶり3度目である。 古代ローマ時代テムズ川河岸の渡津として発展し,ロンディニウムLondiniumと呼ばれた。7世紀にはエセックス王国の主都。1066年ウィリアム1世が即位して以来イングランドの主都となり,12世紀末には自治が認められた。1666年大火により全市焼失したが,復興以後は国際金融の中心となり,特に産業革命後の人口の都市集中に伴い急激に規模を拡大,世界の経済・政治の最大の中心として繁栄したが,20世紀に入ってその地位をニューヨークに奪われた。817万3941人(2011,大ロンドン)。
→関連項目イギリスウェストミンスター宮殿,ウェストミンスター寺院及びセント・マーガレット教会セント・パンクラス[駅]ビクトリア[駅]ロンドンオリンピック(1908年)ロンドンオリンピック(1948年)ロンドンオリンピック(2012年)

ロンドン

ドイツ出身の米国の物理学者。ゲッティンゲン大学,ミュンヘン大学等で学び,1928年にベルリン大学私講師となったが1933年ナチス政府により追放。1939年渡米しデューク大学教授。1927年ハイトラーとともに水素分子の構造を量子力学的に論じ,化学結合に関するハイトラー=ロンドンの理論を提唱。また極低温を研究,超伝導に関するロンドンの方程式を立て,液体ヘリウムの特異性に関する一つの説明を提案した。

ロンドン

米国の作家。占星術師の私生児として生まれ,少年時代から放浪生活を送る。社会主義やニーチェに共鳴,処女短編集《狼の子》(1900年)以後も世界中を渡り歩きながら,《荒野の呼び声》《白い牙》(1906年),《海の狼》(1904年),《鉄の踵》(1907年)や評論集《階級闘争》(1905年),スラム街のルポ《奈落の人びと》(1903年),半自伝的な《マーティン・イーデン》(1909年)等を発表。自らの理想と流行作家としての生活との矛盾に悩んで自殺。

ロンドン(カナダ)【ロンドン】

カナダ,オンタリオ州南部の商工業都市。豊かな農業地域の中心にある交通の要地で,農畜産物の集散地。軽工業も発達。ウェスタン・オンタリオ大学(1878年創立)がある。この地は1792年将来のアッパー・カナダの主都とすべく定められ,1826年植民開始。ロンドンを含むオンタリオ州南部にはエーボン川が流れ,ストラトフォードという町もあり,橋,街路,建物など英国をまねたものが多い。21万9153人(2011)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロンドン」の意味・わかりやすい解説

ロンドン
London

イギリスの首都。イングランド南東部,テムズ川の河口より約 80km上流の沿岸に位置する。43年,ローマ皇帝クラウディウス1世による征服後,湿地帯を横切る距離が最短ですむ渡河点としてテムズ川に架橋されて以来,橋頭集落ロンディニウムとして発達した。1066年,ノルマンディー公ウィリアム(ウィリアム1世)がウェストミンスター寺院でイングランド王に即位してから,イングランドの首都として発展。1664~65年疫病が大流行,1666年のロンドン大火で市街地の大半を焼失したが,エリザベス朝時代に飛躍的な発展を遂げ,17世紀には国際金融市場の中心地となった。第2次世界大戦まで大英帝国の首都として繁栄,その後大英帝国の衰退に伴って世界経済における市の重要性は低下したが,旧植民地を含むイギリス連邦の政治,経済の中心地としての,またヨーロッパ連合 EU,第三世界に対する貿易・金融上の大中心地としての地位は依然として維持し,アメリカ合衆国のニューヨーク,スイスのチューリヒと並ぶ国際金融界の大取引場として大きな影響力を及ぼしている。
タワーブリッジより下流のテムズ川の水路と,その沿岸に並ぶドック群,埠頭からなるロンドン港はイギリス最大の貿易港で,おもに食糧と工業原料を輸入,工業製品を輸出する。工業部門は,中心市街部では奢侈品,家具,衣料などの製造,テムズ川沿岸部では製粉,製糖や,石油精製,自動車製造,造船を含む重化学工業,郊外部では機械,電機などの工業が中心。炭田を背後に控えて発展したイギリスのほかの工業都市とは異なるが,膨大な労働力と消費人口を抱える,イギリス最大の工業中心地となっている。18世紀以降,急激に都市化が進み,1888年ロンドン市(シティ)を中心とした市街化地域がロンドン県となったが,その後も都市域が拡大し続けたため,1965年同県は廃止された。これに代わって郊外の住宅地を含めてグレーターロンドンというコナベーション(連接都市域)が設置された。イングランド銀行大英博物館,ウェストミンスター寺院,バッキンガム宮殿ロンドン塔イギリス国会議事堂セント・ポール大聖堂,ギルドホール,ナショナル・ギャラリー,ロンドン博物館など歴史的建造物が多い。イギリス最大の総合大学であるロンドン大学をはじめとする多数の高等教育機関がある。イギリス最大の交通中心地でもあり,全国各地からの鉄道,道路が集まり,西郊にヒースロー国際空港,南郊にガトウィック空港がある。面積 1572km2。人口 817万3941(2011)。

ロンドン
London, Jack

[生]1876.1.12. サンフランシスコ
[没]1916.11.22. カリフォルニア,グレンエレン
アメリカの小説家。本名 John Griffith London。旅回りの占星術師の子に生れ,14歳で学校をやめ,さまざまな肉体労働や放浪に明け暮れる少年時代を過し,アザラシ猟の船に乗組んで日本にも立寄った。 19歳で高校に入学,1年後には一時カリフォルニア大学に在学して,H.スペンサー,ダーウィン,マルクス,ニーチェの著作に親しんだ。 1897年カナダのユーコン地方,クロンダイクゴールド・ラッシュに加わり,この経験をもとに発表した最初の短編集『狼の子』 The Son of the Wolf (1900) で一躍認められた。同じくユーコンを舞台にした長編『野性の呼び声』 The Call of the Wild (03) ,『白い牙』 White Fang (06) ,アザラシ猟の超人的船長を描く『海の狼』 The Sea-Wolf (04) ,拳闘家の悲劇を描く『試合』 The Game (05) など,人気作を次々発表して第一線作家の地位を確立した。しかし,本能的な自己顕示欲と社会主義的立場との矛盾に苦しんで自殺した。ほかに夢物語『アダム以前』 Before Adam (06) ,未来小説『鉄の踵』 The Iron Heel (07) ,自伝的小説『マーティン・イーデン』 Martin Eden (09) ,『ジョン・バーリコン』 John Barleycorn (13) など。日露戦争のおり従軍記者として再度日本を訪れた。

ロンドン
London, Fritz Wolfgang

[生]1900.3.7. ブレスラウ(現ポーランド,ウロツワフ)
[没]1954.3.30. ノースカロライナ,ダラム
ドイツ生れのアメリカの理論物理学者。ドイツ各地の大学で学び,1921年ミュンヘン大学にて哲学で学位取得。のち物理学に転向し,A.ゾンマーフェルトに学ぶ。ベルリン大学私講師 (1928) 。イギリスの帝国化学工業会社に勤め (33) ,パリ大学ポアンカレ研究所に入所 (39) 。同年渡米してデューク大学教授。 27年 W.ハイトラーとともに量子力学に基づいた水素分子の研究を行い,化学結合の量子力学的理論の基礎を築いた (→ハイトラー=ロンドンの理論 ) 。また弟 H.ロンドンとともにロンドン方程式を提出し超伝導の現象論を展開。超流動ヘリウム4に関する研究も知られている。

ロンドン
London

カナダ,オンタリオ州南東部の都市。トロントの南西 185km,エリー湖の北 34km,オンタリオ湖とセントクレア湖の中間に位置する。 1826年イギリス軍の駐屯地として開かれ,軍事都市として発展したが,53年鉄道が通じて,交通の中心としても発達。現在オンタリオ州南西部の金融,宗教,教育,軍事,工業の中心として繁栄。食品,金属,ディーゼル機関車,衣料,電機などの工業が行われる。ウェスタンオンタリオ大学 (1878) がある。人口 36万6151(2011)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ロンドン」の解説

ロンドン
London

イギリスの首都。テムズ川河口近くに建設されたローマ人の都市ロンディニウムが起源。中世において経済の中心である「シティ」と政治の中心のウェストミンスターが繋がりをみせるようになり,17世紀後半には人口50万を擁する世界最大規模の都市となった。ピューリタン革命ではその経済力で議会派を支援した。1665年と66年にはペストと大火に見舞われ,レンなどの活躍によって現在のロンドンの原型になる都市再建が図られた。行政機構の不整備もあって肥大化に歯止めがかからず,特に東部のイースト・エンドには巨大なスラム街が生まれて社会問題となり,繁栄する西部と極端な対照を示した。19世紀以降イギリスの国際的な地位を反映して,多くの国際会議がこの地で開催された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ロンドン」の解説

ロンドン
London

イギリス,イングランド南東部,テムズ川河口近くにある同国の首都
古来ケルト人が住み,古代ローマの支配下ではロンディニウム(Londinium)と呼ばれ,軍事・商業上の中心地となった。七王国時代は軍事上の拠点として栄え,ノルマン朝・プランタジネット朝時代は自治都市として発展,14世紀ごろからは羊毛・毛織物輸出の中心地として栄えた(このころ人口約5万となる)。テューダー朝時代は経済的中心となり,エリザベス女王時代は特に繁栄した。17世紀初頭の人口約20万。絶対王政期のピューリタン革命中は議会軍の中心となったが,1666年の大火でシティーの北東隅を除く全市が焼失した。ただちに復興計画がたてられ,産業革命後は世界経済の中心地となり,19世紀以来しばしば国際会議の開催地となった。第二次世界大戦中,爆撃を受けてウェストミンスター寺院・議事堂なども被害を受けた。

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化学辞典 第2版 「ロンドン」の解説

ロンドン
ロンドン
London, Fritz, Wolfgang

ドイツ生まれのアメリカの物理学者.ユダヤ系の数学教授の息子としてブレスラウに生まれる.ボン大学,フランクフルト大学,ゲッチンゲン大学,ミュンヘン大学で学んだ後,ベルリン大学で講師となった.1930~1936年オックスフォード大学,パリ大学などで研究生活を送った.1939年にアメリカに移住し,デューク大学理論化学教授となり,亡くなるまでその地位に留まった.1927年W. Heitlerとともに水素分子の共有結合の問題を,量子力学を用いて明らかにした(ハイトラー-ロンドンの理論).また,1935年には弟のH. Londonとともに,超伝導に関する現象論的なロンドンの方程式を提出した.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「ロンドン」の解説

ロンドン〔戦艦〕

《London》イギリス海軍の戦艦。フォーミダブル級の改良型であるロンドン級のネームシップ。1899年進水、1902年就役の前弩級戦艦。1919年退役。

ロンドン〔曲名〕

オーストリアの作曲家ヨーゼフ・ハイドンの交響曲第104番(1795)。原題《London》。ロンドンで作曲されたロンドン交響曲の一つ。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のロンドンの言及

【イギリス】より

…正式名称=グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland面積=24万4792km2人口(1996)=5848万9975人首都=ロンドンLondon(日本との時差=-9時間)主要言語=英語通貨=ポンドPoundヨーロッパ大陸の西方に位置する立憲王国。正式の国名は〈グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国〉で,〈英国〉とも呼ばれる。…

【区】より

…フランスでもパリ市に20の区arrondissementが設置され,当該区選出の市会議員,市長任命の戸籍官,市議会の選出した者からなる区委員会が,一部の地域行政を処理している。イギリスでは,1963年以来,ロンドン地区に広域自治体として大ロンドン県Greater London Councilが設けられ,その下に,ロンドン市と32の区London Boroughが設けられている。だが,これは公選の議会をもち,自治権を行使している完全自治体であり,〈区〉という日本での一般的訳語は,必ずしも正確でない。…

【地下鉄道】より

…地下鉄が建設された当初は,路面の最大輸送能力が需要に追いつけなかったための地下化であったが,近年の現象は自動車の普及による路面輸送能力の低下によるものである。地下鉄の役割には都市内交通としての面(モスクワ,ニューヨーク)と,郊外と都心を結ぶ高速大量輸送機関としての面(ローマ,ワシントン)があるが,最近は都市の広域化,近郊都市の人口増,新都市開発を反映し,郊外と都心を直接結ぶ路線が建設されている(ロンドン,パリ,東京)。
[日本の地下鉄]
 日本最初の地下鉄の開通は1927年早川徳次の東京地下鉄道会社による浅草~上野間2.2kmである。…

【乗合馬車】より

…しかしこの最初の試みは短期間で終りを告げた。 乗合馬車の本格的な営業開始は,工業化による都市人口の膨張が目だつようになった時点にあたっており,とくに他の都市に比して群を抜いた人口が集中するにいたったロンドンやパリで急速に発達した。まず1820年にロンドンで試みられ,27年にフランスのナント,次いで28年にパリに路線を経営する会社が設立された。…

【化学結合】より

…水素原子の電子軌道はHeと同様2個の電子で安定な配置になるので,2個の原子が1個ずつの電子を出し合って共有することによって結合が形成される。このことを量子論を用いて定式化したのはハイトラーWalter Heitler(1904‐81)とロンドンFritz London(1900‐54)である(1927)。いま2個の水素原子をa,b,電子を1,2と記号づけ,水素原子aの電子軌道の波動関数をψaと表し,1番の電子がこの軌道にあるときψa(1)のように記す。…

【原子価結合法】より

…電子のこのような波動性は波動関数によって説明される。1927年,ハイトラーWalter Heitler(1904‐81)とロンドンFritz London(1900‐54)は,波動関数を用いて水素分子の結合機構を明らかにした。これが原子価結合法と呼ばれるもので,VB法と略称される。…

【化学結合】より

…水素原子の電子軌道はHeと同様2個の電子で安定な配置になるので,2個の原子が1個ずつの電子を出し合って共有することによって結合が形成される。このことを量子論を用いて定式化したのはハイトラーWalter Heitler(1904‐81)とロンドンFritz London(1900‐54)である(1927)。いま2個の水素原子をa,b,電子を1,2と記号づけ,水素原子aの電子軌道の波動関数をψaと表し,1番の電子がこの軌道にあるときψa(1)のように記す。…

【原子価結合法】より

…電子のこのような波動性は波動関数によって説明される。1927年,ハイトラーWalter Heitler(1904‐81)とロンドンFritz London(1900‐54)は,波動関数を用いて水素分子の結合機構を明らかにした。これが原子価結合法と呼ばれるもので,VB法と略称される。…

【超流動】より

…超流動が起こる機構は4Heと3Heとではまったく異なり,前者では4He原子がボース統計に従うことと原子間に斥力があることが,また後者では3He原子がフェルミ統計に従うことと原子間に引力があることが原因になっている。4Heの超流動理論は1930年代にF.ロンドン,L.D.ランダウらによって作られ,3Heの超流動については超伝導のBCS理論の出現(1957)直後からその応用として多くの人たちによって考えられてきた。
[液体ヘリウム4の超流動]
 4Heはボース粒子であってボース統計に従う。…

【児童文学】より


[イギリス]
 16~17世紀は手鏡のようなホーンブックhornbook,17~18世紀は江戸時代の赤本のような行商人によるチャップブックchapbookが,子どもたちの唯一の本だった。しかし1744年にニューベリーJ.Newberyがロンドンのセント・ポール大聖堂前に,世界で初めての子どものための本屋をひらいて,小型の美しい本を発行し,伝承歌謡を集めた《マザーグースの歌(マザーグース)》やO.ゴールドスミスに書かせたと思われる初の創作《靴ふたつさん》を送り出した。しかし18世紀を支配したJ.J.ルソーの教育説はたくさんの心酔者を出して,児童文学は型にはまり,C.ラムは姉メアリーとともにこの風潮に反抗して,《シェークスピア物語》(1807)などを書いたが,児童文学が自由な固有の世界となるには,ペローやグリム,アンデルセンの翻訳をまたなければならなかった。…

【ユートピア】より

… 第2には,反ユートピア(ディストピア)論の登場である。J.ロンドン《鉄のかかと》(1907),E.I.ザミャーチン《われら》(1924),A.L.ハクスリー《すばらしい新世界》(1932),G.オーウェル《1984年》(1949)などの代表例が挙げられる。これらは,理想国家として建設されたはずのユートピアが,かえってその強大な支配力によって人間を不自由化する,というモティーフにもとづいており,社会主義計画経済やケインズ主義政策などの定着の反面であらわになった矛盾に,敏感に反応した文学的表現といえる。…

※「ロンドン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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