小塚原町(読み)こつかつぱらまち

日本歴史地名大系 「小塚原町」の解説

小塚原町
こつかつぱらまち

[現在地名]荒川区南千住みなみせんじゆ一―二丁目・同四―七丁目

下谷通新したやとおりしん町の西・北・東に広がる。東は橋場はしば耕地、西は三河島みかわしま村、南は山谷さんや(現台東区)耕地に接し、北は荒川(現隅田川)を隔てて千住せんじゆ宿のうち掃部かもん宿内橋戸はしど(現足立区)に相対している。ほぼ中央を下谷から千住へと向かう道(下谷通)が南東から北西へ通り、道沿いには下谷通新町が形成されている。この道は北部で南の山谷町から北上してきた日光道中に合流し、北の千住大橋へと続く。「風土記稿」は小塚原町と東方中村なかむら町の境は錯綜しており判別困難なことから、両町を併せて四至を記述している。小塚原は古くは古塚原(風土記稿)、骨ヶ原(蘭学事始)などとも記される。地名の由来には諸説あり、当地の鎮守飛鳥あすか権現牛頭天王合社(現素盞雄神社)の両神翁が降臨した奇岩瑞光石の小塚にちなむとも、また源義家が奥州攻めの際に討取った賊首を埋めた円通えんつう寺の四十八塚に起因するともいう。文安五年(一四四八)一一月日の熊野神領豊島年貢目録(熊野那智大社文書)に「三貫三百 小塚原鏡円」とみえ、紀伊国熊野社に年貢を負担する人々の一人として当地居住の鏡円がみえる。素盞雄すさのお神社には南北朝時代の板碑があったという。また平安時代の創建と伝え、かつ中世の板碑も存在する誓願せいがん寺、やはり同時代の創建と伝える熊野神社があることから、中世の早い段階から奥州方面につながる街道(奥大道か)上の渡河点として重要な地であったことが推測される。素盞雄神社別当神翁寺の系譜を引く石山家には、応永二八年(一四二一)の年紀のある「鏡円禅門」と刻まれた宝篋印塔が残る。

天正一八年(一五九〇)徳川家康の江戸入部に際し今村彦兵衛勝長は小塚原で知行を宛行われており(今村家譜)、寛永二年(一六二五)その子正信に小塚原村七〇石が宛行われた(記録御用所本古文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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