東京都荒川区にあった地名で,〈こつかっぱら〉ともいい,古塚原(こづかはら),骨ヶ原(こつがはら)ともいう。江戸時代,本所回向院の持地に幕府の刑場が置かれたことで名高い。刑場は現在の南千住2丁目,浅草山谷から奥州・日光道中最初の宿場千住へ向かう西沿いにあって,間口60間余,奥行30間余の規模を有した。品川鈴ヶ森とともに,江戸の両刑場として,磔(はりつけ),火罪,斬罪の諸刑が執行され,獄門刑の梟示(きようじ)が行われた。1771年(明和8)前野良沢,杉田玄白らが腑分(ふわけ)を参観したのも小塚原である。明治初年まで使用された。今日ではやや北方に移って残る延命地蔵尊,いわゆる首切り地蔵が往時をしのばせる。
執筆者:加藤 英明
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東京都荒川区南東部、南千住(みなみせんじゅ)にあった地名。この地の鎮守の飛鳥(あすか)明神社境内に瑞光(ずいこう)を発した石を埋めた塚があり、これを小塚といい、それが地名の由来で、小岩原、古塚原とも記した。東海道の鈴ヶ森とともに、江戸の二大仕置場(しおきば)(刑場)の一つが置かれ、明治初年の廃止まで約20万人が処刑されたという。その霊を回向(えこう)する回向院が1667年(寛文7)両国回向院の別院として建てられた。境内に1771年(明和8)蘭方医(らんぽうい)前野良沢(りょうたく)らが刑場の刑死者の腑分(ふわけ)(解剖)に立ち会い、それを機に『解体新書』を翻訳、出版したことを記念した観臓(かんぞう)記念碑、また近くに刑場の名残(なごり)を示す首切り地蔵(延命(えんめい)地蔵)がある。なお、現在回向院は南千住5丁目、小塚原刑場跡は南方の南千住2丁目まで拡がる。
[沢田 清]
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…なお武士の閏刑(じゆんけい)である切腹の場所は,牢屋敷内揚座敷(あがりざしき)前庭のほか,時宜によって当人預け先の屋敷内があてられた。牢屋外の刑場として,江戸では千住小塚原(こづかつぱら)と品川鈴ヶ森に常設のものがあり,これを〈両御仕置場〉と称した。徳川家康の関東入国以前には日本橋本町4丁目に刑場があったといい,小塚原刑場は浅草鳥越から聖天町を経て千住の地に落ち着いたもの,鈴ヶ森刑場は1651年(慶安4)丸橋忠弥らの処刑に始まると伝えられている。…
…【佐藤 進一】 江戸時代には斬首刑のうち士分以上にのみ適用したものを,特に〈斬罪〉と称した。幕府の制度,慣習では江戸の北,千住小塚原(こづかつぱら)刑場で執行し,検使たる徒目付(かちめつけ),町奉行与力の立会いのもと,町奉行同心が罪囚の首をはねた。《公事方御定書》下巻によれば,財産没収処分(闕所(けつしよ))も付加される。…
…以来,公用貨客を運送する伝馬役,歩行(あるき)役を負担し,その代償として地子免除などの特権を与えられた。当初は千住1~5丁目の5町(のちに本宿と呼称)であったが,万治年中(1658‐61)まず掃部(かもん)宿,河原町,橋戸町の3町(新宿,足立郡)を,次いで荒川南岸の小塚原・中村両町(南宿,豊島郡)を加宿とし,この10町を千住宿と称した。江戸四宿のうちで最長の町並みの宿場となり,幕末には家数約2300軒,人口約1万人を数えた。…
…のち,もっぱら放火犯に対する刑罰となり,幕府の《公事方御定書(くじかたおさだめがき)》は,付火(つけび)した者,および人に頼んで付火させた者にのみ火罪を科した。罪囚はまず引廻しに付され,江戸ならば小塚原(こづかつぱら)または鈴ヶ森の刑場に至る。刑場には高さ2mほど,15cm角の火罪木が立てられており,これに罪囚を縛って,その周囲は茅と薪とで覆いつくす。…
※「小塚原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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