小崎村(読み)こざきむら

日本歴史地名大系 「小崎村」の解説

小崎村
こざきむら

[現在地名]椎葉村大河内おおかわうち 小崎

小崎川を挟んで狩底かりぞこ村の西に位置する。丘上には戦国期の小崎城跡があり、石垣が残る。本丸の南から東・北は小崎川が巡り、北西は高さ約二〇メートルの断崖をなしている。「日向記」によれば、天文二年(一五三三)の伊東氏の内訌の際、伊東祐清擁立に反して小崎衆など山裏一揆が蜂起したという。また同書には永禄一一年(一五六八)頃の分国中城主のなかに神門三方領主として小崎右近将監の名がみえる。天正六年(一五七八)豊後の大友氏は日向奪回を目指す伊東氏とともにいし(現木城町)で島津方と合戦となり、このとき小崎勢も大友方に荷担し活躍している。七月一六日大友義統は山裏の小崎衆らの活躍を称賛する感状を米良四郎右衛門に送っている(同書)。同一二年一一月二一日、島津義久は龍造寺氏との合戦に出陣しなかった甲斐親直を討つが阿蘇氏には他意なき旨を告げるため、書状を木脇刑部左衛門尉祐昌に託し、小崎の奈須左近将監のもとへ遣わしている(上井覚兼日記)。同一三年秋、島津家久は甲斐長門守の拠る小崎城を落している(「島津中務大輔家久譜」旧記雑録、「西藩烈士干城録」)


小崎村
おさきむら

[現在地名]豊後高田市嶺崎みねざき 小崎

横嶺よこみね村の南に位置し、西叡さいえい山南麓、はな岳東麓の小崎川中・上流域に立地する。集落はうえはるななはる空木うつぎなどに散在しており、集村的な集落を形成する上ノ原には延寿えんじゆ寺や高札場がある(元禄二年「村絵図写」田染支所蔵)。鎌倉時代後期には同寺付近に宇佐宮神官田染氏の居館があり、同寺境内には「応仁弐歳丁亥八月」「大願主宇佐栄忠」在銘の石殿などが残る。正和二年(一三一三)六月二二日の鎮西下知状(湯屋文書)に「田染庄尾崎屋敷弐箇所」とみえ、同地は尾崎久澄・同五郎らが知行していたが、元来宇佐(田染)忠基の外祖父信戒の本領の地であったため、神領興行法によって返付を要求していた忠基に返付された。


小崎村
こざきむら

[現在地名]砥用町川越かわごし 小崎

つつ川上流にあり、北は上益城郡柚木ゆのき(現矢部町)、南は用来ようらい村、西は貫平かんだいら村、東は北野きたの村と隣接する。標高三〇〇メートル余りにある小山村。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高二四八石九斗余、うち田方一一四石一斗余・畠方一三四石八斗余。


小崎村
こざきむら

[現在地名]田平町小崎免こざきめん

田平村の東部に位置する。北部は海に臨み、南に石室いしむろ山がある。江戸時代は平戸藩領のうちで、正保国絵図に「小崎村」とあり、高一二八石余。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳によれば、小崎村内に一里山が築かれていた。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では田平里たびらさと村内に小崎免と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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