田平村(読み)たびらむら

日本歴史地名大系 「田平村」の解説

田平村
たびらむら

[現在地名]田平町里免さとめん岳崎免たけざきめん下亀免しもがめめん上亀免かみがめめん小崎免こざきめん福崎免ふくざきめん横島免よこしまめん

現田平町域の北部に位置する。北流する釜田かまた川が釜田浦に注ぎ、沖合に横島が浮ぶ。里免地区の盆地に推定されている古代の条里遺構は里田原さとたばる条里とよばれ、N一〇度Eの方位と、南北に三坪、東西に六坪ほどの地割が確認されている。この盆地の北側の丘陵上で数十点の布目瓦が出土、九世紀頃の官衙が推定されているが(同所出土の土師器による)、天平一七年(七四五)一〇月一二日以前に建立された「松浦郡弥勒知識寺」に想定する説がある。この弥勒みろく寺には同年に僧二〇口と水田二〇町が付されたが、その後僧が死んだため承和二年(八三五)改めて寺僧五人が置かれている(同年八月一五日「太政官符」類聚三代格)。そのすぐ南東に宗像むなかた神社、条里遺構の西に総社そうじや神社が鎮座しており、そこから平戸島に渡る拠点であったノ浦までは近い。貞観一八年(八七六)設置が認可された値賀ちか島に島府が置かれていれば、その所在地は平戸が有力であるが、それと結ぶ道は彼杵そのき郡家から北へ、つまり新分にいきた駅から分岐して設定されたことになり、当地は渡河点として注目される。平戸島に渡海する現田平町深月免ふかつきめんにあるうまもと万場ばんばなどを駅家の関連地名とする指摘もある。松浦氏一族の峰氏が本拠とした里城があり、同城主の峰家の菩提寺という長寿ちようじゆ(明治初年廃寺)があった。

田平村
たびらむら

[現在地名]院内町田平

恵良えら川最上流部の谷間に位置し、東は土岩屋つちいわや村、北は野地のじ村。元禄豊前国絵図によれば、恵良川に沿って四日市よつかいち陣屋(現宇佐市)と豊後国玖珠くす郡を結ぶ往還が南北に走る。享禄四年(一五三一)閏五月一五日の恵良頼盛譲状(恵良文書)に「一所田ひらなこ両人、此内ひうかし屋敷ふん弐段」とみえる。小倉藩元和人畜改帳では高五三石余、家数四・人数一八(うち百姓二・名子二)、牛二・馬一。延宝八年(一六八〇)には田所組に所属し、人数二二(「人畜帳」庄家文書)。元禄豊前国高帳では高五四石余。享保二年(一七一七)の高反別書上帳(緒方家文書)によれば、村高五四石余のうち一九石弱が「前々不足」とみえ、手余地にもかかわらず年貢が課せられている。

田平村
たのひらむら

[現在地名]南串山町京泊名

京泊きようどまり名の北部に位置し、沖合に島が浮ぶ。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図に「串山内田平村」とみえ、高三四八石余。島原の乱後小豆しようど(現香川県)ノ浦(現香川県内海町)より三木・富永・和田・渡辺の諸氏、阿波より井上氏が来住したとされる(南串山村郷土誌)

田平村
たびらむら

[現在地名]和良村三庫みくら

鬼谷おんだに川流域にあり、上流は洲河すごう(現八幡町)、西の小板屋こいたや新田(現同上)へ通じる山道がある。正保郷帳に村名があり、郡上藩領で、田方九石余・畑方二九石余。元禄六年(一六九三)旗本井上正長領となり、正徳二年(一七一二)以後幕府領。

田平村
たびらむら

[現在地名]竹田市植木うえき

濁淵にごりぶち川上流東岸にあり、南は長慶院ちようけん村。正保郷帳では長田ながた郷に属し、田方三九石余・畑方二六石余で、柴山有と注記される。植木組のうち。旧高旧領取調帳では高一六六石余とほぼ倍増。明治八年(一八七五)政所まどころ村など一三村と合併して植木村となる。

田平村
たのひらむら

[現在地名]野津町八里合はちりごう 田の平

備後尾びごお村の東、臼杵うすき川南西岸にある。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には田平村が城崎じようざき村など三ヵ村と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に田ノ平村とみえ、高一七石余。中ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方三石余・畑方一三石余。

田平村
たびらむら

[現在地名]水俣市陣内じんない一丁目・古城こじよう一丁目

陳内じんない村北部の小村、北部の台地上に蕨野わらびの村があり、東・南・西は陳内村に囲まれる。もとは陳内村に含まれていたと思われ、寛永期(一六二四―四四)の記録には村名がみえない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報