小川定明(読み)オガワ テイメイ

20世紀日本人名事典 「小川定明」の解説

小川 定明
オガワ テイメイ

明治期のジャーナリスト



生年
安政2年3月6日(1855年)

没年
大正8(1919)年1月3日

出生地
江戸・麴町

出身地
愛知県

旧姓(旧名)
青山,名倉

別名
幼名=庄之助,号=樵僊

学歴〔年〕
名古屋藩学校仏語科

経歴
江戸詰めの尾張藩士の子として、麴町の藩邸で生まれる。慶応4年(1868年)名倉家、明治9年小川家の養子となる。この間、名古屋藩学校仏語科に学び、教師だった林正十郎の薫陶を受ける。明治12年甲府でかなめ新聞を主宰。峡中新報、静岡新聞の記者を経て、政治運動に参加、19年旧自由党員らの政府転覆計画(静岡事件)で逮捕された。中外電報記者から25年大阪朝日新聞入社。新鮮な文章と観察で読者に人気があり、名物記者として知られた。特に戦地報道にすぐれ、台湾出兵、日清戦争、義和団事変、日露戦争などに従軍。35年大阪朝日新聞を退社。その後、千葉県成東町の鉱泉旅館の下男や北海道の孤児院の爺やとなり、漂白の人生を送った。その奇行ぶりから南方熊楠、宮武外骨と“3奇才3奇人”として並び称される。著書に「新聞記者腕競べ」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小川定明」の解説

小川定明 おがわ-ていめい

1855-1919 明治時代の新聞記者。
安政2年3月6日生まれ。もと尾張(おわり)名古屋藩士。代書人,巡査などをへて明治13年山梨県甲府で民権派の「かなめ新聞」主筆兼記者となる。25年「大阪朝日新聞」に入社,日清戦争などでの言文一致スタイルの従軍記と並みはずれた奇行で知られた。大正8年1月3日死去。65歳。本姓は青山。号は樵僊。著作に「新聞記者腕競べ」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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