麴町(読み)こうじまち

改訂新版 世界大百科事典 「麴町」の意味・わかりやすい解説

麴町 (こうじまち)

東京都千代田区西部の地名皇居半蔵門から西にのびる新宿通り(甲州街道)をはさんで東西に広がる。1878年丸の内,霞が関などを含めて東京府麴町区が成立し,1947年神田区と合併して東京都千代田区となった。現在の麴町にはビルが多く,オフィス街としての性格が強い。一方,麴町の北側の番町は,明治以降,高級住宅地となり,イギリス大使館などの外国公館も設けられたが,近年はオフィス・ビルがふえている。
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半蔵門から西にむかう甲州道中(街道)起点部の地名で,慶長(1596-1615)ころまで国府方(こうかた)とも呼ばれ,やがて国府路(こうじ)となり,麴の文字をあてられ麴町となる。13丁目まである細長い町で,1591年(天正19)成立し,江戸の街村集落の中で最も早く町屋になった。江戸城築城用の木材,石灰などの関東山地からの資材の受入地であり,遊女屋もある宿場として発達した。1603年の五街道の制定後も,実質的には甲州道中の起点だった。36年(寛永13)の外郭工事で四谷門ができると,11~13丁目は郭外に分断され四谷に移った。広義の麴町は南側の平河天神門前町を含む地域名。平河天神は太田道灌が城内に勧請した神社で,1606年の城郭拡張の際,氏子ともどもこの地に移された。これも江戸最古の町の一つである。元地は本丸の上・下梅林坂や平河門の名に残る。麴町の北側の番町は旗本集住地帯,南側の永田馬場も旗本,大名の集住する広大な武家地であり,それらの武家地の消費生活を支える山手最大の町屋として繁盛した。特に天神門前は山手唯一の歓楽街として知られた。1691年(元禄4)1~10丁目間に火除地が造られ,麴町の南側は火除地の幅だけ南に移り,麴町と天神門前は地続きになった。宝永(1704-11)ころ広小路は廃止され,麴町は旧位置に復したが,その跡は改めて平河町1~6丁目の広い町屋が新設されて幕末まで続く。幕末の江戸全市には15の寄場(よせば)(公認の歓楽街)があったが,麴町・平河町には三つも寄場が集中した。いかに広義の麴町が山手の中心的市街地であったかがわかる。さらに麴町の北側に騎射調練場がつくられ,黒船に備えた訓練が行われたことでも知られた。食物の名物は獣肉店(けだもの屋,ももんじや)が特に名高く,麴町は肉食の代名詞でもあった。麴町の名主矢部氏は徳川以前から幕末まで続き,1878年麴町区が発足すると初代区長を出した名族だった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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