小熊村(読み)おぐまむら

日本歴史地名大系 「小熊村」の解説

小熊村
おぐまむら

[現在地名]岐阜市小熊町・金屋町かなやちよう大門町だいもんちよう藍川町あいかわちよう鶯谷町うぐいすだにちよう・鶯谷・初音町はつねちよう金屋横町かなやよこちよう多賀町たがまち柳沢町やなざわちよう大宝町だいほうちようなど

金華きんか山から南に延びる山稜西麓に位置。岐阜町の属村とされ、同町の南口にあたる(濃陽志略)今泉いまいずみ村の南東で、南は上加納かみかのう村。周辺に飛地が散在していた。厚見あつみ郡に属し、慶長郷帳によれば高一四八石余で幕府領。元和五年(一六一九)尾張藩領となり幕末に至る。正保郷帳では草野ありと注され、田八九石余・畑五九石余・野年貢五斗、ほかに新開として田三石余・畑六斗余。旧高旧領取調帳では高三〇六石余。明暦覚書によれば概高二九七石余、人数八四二、馬二。用水は上加納村と共同で引き、雨池一ヵ所があった。「濃陽志略」では家数一六〇・人数六三〇。寺として大宝寺・東本ひがしほん(岐阜別院)浄土寺を記す。「濃州徇行記」によると反別田六町三反余、畑四町八反余、うち屋敷二町二反、新田高八石余・反別三反余、家数一四五・人数六一一。村は東西一町余・南北三町。畑は町の東、田は町から一〇町離れて東方の関に向かう街道筋にあり、十一灘・十二灘・山下・奥別・下野とよんだ。

岐阜町四四町の一である下笹土居しもささどい町の南にあたる当村には南北に一筋の両側町が形成された。


小熊村
こぐまむら

[現在地名]川辺町小熊

土生はぶ村の枝郷の一。本郷の東南に位置し、日高川を隔てて野口のぐち(現御坊市)に相対し、南東に若野わかの村、東に入野にゆうの村がある。村内を東から西に流れる若野井堰に沿って集落が集中。「続風土記」に「小熊は川隈の義なり」とある。興国四年(一三四三)の一向専修念仏名帳(西教寺蔵)に「コクマ」とみえる。

近世初頭は土生村の一部であったが、万治元年(一六五八)に分立した。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によれば田畑三八町九反余で高四〇五石余、家数八二で内訳は本役二三・半役一三・無役四〇・庄屋一・年寄一など、人数二七〇、牛三三、馬三、鉄砲二、池七。幕末には高四〇四石余、家数九二、人数四七四(続風土記)


小熊村
こぐまむら

[現在地名]津幡町小熊こんま

津幡川上流の吉倉よしくら川と能瀬のせ川の分水嶺たね村の東方に位置。仮名付帳・「圭邑名林」など近世文書はコグマと訓ずる。正保郷帳では高二〇四石余、田方七町・畑方六町六反余、寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二四二石、免五ツ、小物成は山役一三六匁・蝋役一匁・綿役一匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数一〇(高免付給人帳)。天明元年(一七八一)田地の多くが谷間にあり日照が悪く、また山上の田地は定水不足として九歩、同八年より山崩れによる変地御償米代として一ツ二歩引免。以後引免は上下したが、享和二年(一八〇二)より三ヵ年一ツ七歩引免となった。同年の高二四四石(「河北郡引免根帳」林文書)


小熊村
おぐまむら

[現在地名]五泉市小熊

新津丘陵の東端にあり、東は能代のうだい川を挟んで土深どぶけ村、北は山崎やまざき村に接する。寛永七年(一六三〇)に沢海藩の検地があり(中蒲原郡誌)、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳に高一二九石三斗余とある。貞享四年(一六八七)幕府領となり、寛政一二年(一八〇〇)の水原代官所村々高書上帳(小田島余吉氏蔵)によると橋田組に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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