日本歴史地名大系 「山下城跡」の解説 山下城跡やましたじようあと 兵庫県:川西市山下町山下城跡[現在地名]川西市山下・下財町猪名(いな)川の源流、一庫(ひとくら)川の東岸にある中世の山城。竜尾(りゆうび)城・塩川(しおかわ)城・一蔵(ひとくら)城などともいわれ、塩川氏の居城として知られる。遺構は山下山と城(しろ)山の二ヵ所に設けられている。山下山の遺構は頂上部の主郭を中心として、二股に分れた尾根上に十数ヵ所の郭を設けている。郭規模が最も大きい主郭は東面に土塁があり、北東背後の尾根続きは大規模な堀切で遮断されている。 山下城跡やましたじようあと 福岡県:八女郡立花町山下町山下城跡[現在地名]立花町北山 山下矢部(やべ)川の支流白木(しらき)川が南と西を限る標高一〇五メートルの独立峰山頂にあった中世の山城。人見(ひとみ)城・笹(ささ)城ともいう。蒲池親広が永正年中(一五〇四―二一)に館を構え、鑑広が築城したという(筑後将士軍談)。天正六年(一五七八)三月二日書写の筑後領主付(同書)に「蒲池勘ケ由鎮行 居山下城」とみえる。同一二年七月山下城主蒲池鎮運(家恒)らは龍造寺隆信戦死以後も同氏に異心なきことを誓い、人質として子息鎮行を差出している(歴代鎮西志)。しかし鎮運は六月には大友氏に通じており、同月大友勢が筑後に侵入したため、鎮運の裏切りを知らない田尻鑑種は七月下旬福島(ふくしま)村(現筑後市)に兵を進め鎮運と力を合せて大友勢を迎え撃とうとしたが(藤龍家譜)、鎮運は八月一八日猫尾(ねこお)城(現黒木町)攻めの大友勢の加勢に駆け付けた戸次道雪らが当城を包囲した時点で、降参したという(「北肥戦誌」など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by