山下源太郎(読み)ヤマシタ ゲンタロウ

20世紀日本人名事典 「山下源太郎」の解説

山下 源太郎
ヤマシタ ゲンタロウ

明治〜昭和期の海軍大将,男爵



生年
文久3年7月13日(1863年)

没年
昭和6(1931)年2月18日

出生地
出羽米沢(山形県米沢市)

学歴〔年〕
海兵(第10期)〔明治16年〕卒

経歴
米沢藩士の二男として生まれる。明治19年海軍少尉任官。主に砲術畑を歩き、日清戦争では軍艦金剛の砲術長などを務めた。33年北清事変では天津駐在陸戦隊指揮官として天津城攻略に参加。日露戦争中は大本営参謀として作戦立案に携わり、ロシアのバルチック艦隊の対馬海峡通過を確信して戦勝に導く要因を作った。42年艦政本部第1部長、43年海軍兵学校長、大正3年軍令部次長、4年佐世保鎮守府長官、6年第1艦隊司令長官。7年大将に昇進、同年連合艦隊司令長官。9年には軍令部長となり、八八艦隊計画の達成とワシントン軍縮会議による軍縮処理に関与した。昭和3年予備役。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「山下源太郎」の解説

山下源太郎

没年:昭和6.2.18(1931)
生年:文久3.7.13(1863.8.26)
海軍軍人。米沢藩士山下新左衛門の次男。米沢市生まれ。藩校興譲館,米沢中学を経て明治16(1883)年海軍兵学校卒。少尉に任官後,主に砲術畑を歩き,日清戦争(1894~95)時には大尉。軍艦「金剛」砲術長として旅順口および威海衛の攻撃に,また,軍艦「秋津洲」砲術長として台湾制圧戦に参加した。明治33(1900)年の義和団事変に際しては,陸戦隊指揮官として天津城を攻撃した。その後,海軍軍令部第1局局員,軍令部参謀として対ロシア海軍戦略の策定に従事,主戦論を唱える。日露戦争(1904~05)では大本営参謀(作戦班長)。日本海海戦では,ロシアのバルチック艦隊の対馬海峡通過を確信,日本を戦勝に導く要因を作った。その後,第1次世界大戦参戦時には軍令部次長。佐世保鎮守府長官などを経て,大正7(1918)年大将に進む。同年,第1艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官。ワシントン会議を挟んで大正9年末から同14年4月まで軍令部長として八八艦隊計画の達成と軍縮の処理に従事した。軍事参議官を経て昭和3(1928)年後備役。<参考文献>松岡正男編『海軍大将山下源太郎伝』

(小池聖一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山下源太郎」の解説

山下源太郎 やました-げんたろう

1863-1931 明治-大正時代軍人
文久3年7月13日生まれ。海軍にはいり,日清(にっしん)戦争に出征。日露戦争では大本営参謀として作戦を指揮する。佐世保鎮守府参謀長などをつとめ,大正7年大将。連合艦隊司令長官,軍令部長,軍事参議官を歴任した。昭和6年2月18日死去。69歳。出羽(でわ)米沢(山形県)出身。海軍兵学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「山下源太郎」の解説

山下 源太郎 (やました げんたろう)

生年月日:1863年7月13日
明治時代-昭和時代の海軍軍人。大将;男爵
1931年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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